「ファミコンの思い出」馬野ミキ
おれが小6の冬に弟がねだって
うちにもファミコンがきた
俺は母子家庭の経済状況を薄々感じて
中三の時にE・フロムの「悪について」をねだるまで
子どもの頃ものをねだるということがなかった
野球、サッカー、缶蹴り、めんこ、とんとん相撲、廃品回収から漫画をかすめ取ること、市区町村を越えた山への探検、酒瓶の換金、廃墟等への不法侵入、秘密基地の作成
それらを
地域のガキ大将的存在として皆を指導する立場にあった俺も
いとも簡単にコンピューターゲームの魔の手に落ちた
あたらしい世界だった
中学に入り
サッカーの部活の終わりに皆でうちに集まりファミスタのトーナメントを開く
ライオネルズかレールウェイズを使い、自分はよく勝った
勝つコツはストライクを投げないことで
みんな若いので
すぐバットを振る、振る、振る!
部活の仲間、不良の友達、いまでいうおたくの知り合い、進学する奴
皆とつきあった
定規をテーブルに固定して弾き、ばねの力でハイパーオリンピックの100米で8秒をだす奴なんなの?
地元のショッピングセンターのスターソルジャーの大会で(ハドソンキャラバンはe-sportsの元祖であろう)
俺はラザロでミスり予選9位で決勝に昇ることが出来ず
PC-88とか98を持っているような、おたくの友達は1位と2位で後日決勝で
プロゲーマー高橋名人と双璧を成した毛利名人と対戦したのだという
彼ら曰く、毛利名人はそれほど上手くなかったらしい・・・
悪い先輩からも仲間はずれにされているはみだし者のMの兄貴から借りたドラクエは衝撃だった
ふっかつのじゅもんがかみ合わないので弟と何度も確認し合って
裏技の発見で2、3回はファミコンの雑誌に名前が載って
ポートピアの犯人が俺と同じ苗字であることは今でも軽度のトラウマ
真犯人がすごく近くにいて、自分と同じ苗字の「まの」なんていやだ
弟とドラクエの次回作のアイデアや新モンスター案をチュンソフトに送っていたら
現スパイクチュン代表取締役の中村光一さんから
いつも楽しみにしています
と直筆の年賀状が届いて
基本的に、いろいろなことは叶うんだなあと思って育った1980
光栄のソフトってなんで一万円を越えるの?
チェッカーズのフミヤに倣って前髪を伸ばし
たくさんの糞ゲーの山をかきわけて
あり得ない隠しコマンドを探して
自分たちが傷ついてるってことを無視して
何度も何度も上下上下左右左右BAって押した