「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと(12)」奥主榮
3 とりあえず、URCというレコード会社について語ろうか(5)
連載の最初の方でも触れたのだけれど、日本の、ごく初期のロック・バンドにジャックスというのがあった。URCから発売された初期のレコードは、ジャックスのリーダーであった早川義夫氏がプロデューサーを手がけていて、バックにジャックスのメンバーが加わることがあった。
ジャックスのメンバーは、早川義夫氏、谷野ひとし氏、水橋春夫氏、木田高介氏の四人であり、水橋氏の脱退後は角田ひろ氏(お名前の表記は、何度か変わっている)が加わる。このバンドについては、連載の先で詳述したい。書きだすと、きりがない部分があるのである。一言だけ添えておけば、そのデビューは、グループ・サウンズと呼ばれた、ザ・ビートルズのヒットの影響下で日本で生まれた模倣のバンドの時代であった。そうした環境の中で、周囲に媚びない、前にも書いたように後のパンク・ロックの先駆的な存在ともいえる音楽を展開していた。
そうした音楽は、今ほど情報のネットワークが発達していない社会の中で、共感し合える相手との関係性を結んでいった。映画監督若松孝二氏の作品にも楽曲を提供している。ある意味では、当時のキーワードであった「アンダーグラウンド」という言葉を、そのまま音楽の世界で体現したバンドでもあった。
といって、公に認めにくい要素ばかりのバンドではない。メンバーの一人であった木田高介氏は、ジャックス解散後の1970年代には編曲家として活躍する。かぐや姫の「神田川」の哀切極まりないアレンジを担当する。あの曲は、冒頭のヴァイオリンの旋律によって、聴き手の想像力が惹起されるものへと昇華していた。残念なことに、四十年ぐらい前に逝去されているが。また、後期のメンバーであった角田氏は、むしろエンタティメント色の強い音楽家として活躍していく。
ジャックスという名称は用いていないのであるが、岡林信康氏のファースト・アルバム「私を断罪せよ」や、中川五郎氏の「終わり はじまる」などでバックを勤めていたと思う。
少し話題が転じる。土方鉄人監督の、「戦争の犬たち」という映画を、僕は1980年のリアルタイムの公開で観ている。しかし、同じ監督の前作である「特攻任侠自衛隊」は未見のままであった。前者は公開当時、冷笑的な若者からは「戦争マニアのヲタ・ムービー」といった感じで揶揄された作品であった。1960年代の熱狂的な「政治の季節」は、1970年代には潮が引くように姿を消し、1980年代になる頃にはシニカルな考え方が擡頭していった。けれど、僕は実際に自分が映画館で実際に観た「戦争の犬たち」が、とても好きな作品であった。東南アジアでの、極秘の軍事オペレーションに駆り出された傭兵たちの姿を描いたこの一作はとても印象的であった。
公にできない事情のある、東南アジアでの軍事活動に、ひそかに募集が行われる。そんな、かなりやばい人材募集に、食い詰めているから集まった連中がいる。(なんだか、今のネットでの裏バイトの募集のようである。) それぞれに切羽詰まった背景を抱えた人たちが現れる。中でも、故人となった俳優、たこ八郎氏演じる男の描写は切ない。応募した後で、自分が危険な状況に置かれていること気が付く。そうして、訓練施設を逃げ出そうとして、あっさりと射殺される。このシーンは、とても哀しくて、やるせなかった。
この映画も、音楽が魅力的であった。フォークシンガーから、ロックの歌い手へと転じた頃の泉谷しげる氏の曲が、とても効果的に使われている。同時期に、石井聰亙(岳龍)監督の「狂い咲きサンダーロード」も公開され、一部の音楽はどちらにも使われていた。(石井作品では、頭脳警察のPANTA氏の曲も用いられた。石井監督の作品の楽曲使用に関しては、事後承諾であったそうである。)
土方鉄人氏の「特攻任侠自衛隊」の中では、URCから出されていた「休みの国」というバンドの曲が使われていたことを、最近まで僕は知らなかった。休みの国は、余り大きく回顧されることのない存在である。それが僕は、残念でならない。
情報量が多く、話題が迷走しているが、ここに名を挙げた「休みの国」というバンドの説明は、とても難しい。ただ、変にカタログ的な語り方をするよりも、僕の主観としてこのバンドの魅力について語ることにする。
休みの国の曲の中では、僕は、「第五氷河期」と「追放の歌」という二曲が、とても好きなのである。その辺りの話を、まず書いていこう。
その、「第五氷河期」という歌を聴くたびに、僕は漫画家坂口尚氏の「魚の少年」という短編を思い出す。1970年頃に、雑誌「COM」に掲載された作品であったと記憶している。
一種のファンタジーのような作品である。子どもが生まれなくなり、老人ばかりが住む世界。そうした時代に、奇跡のように一人の赤ん坊が現れる。老いた人々は、その子を大切にする。ある年齢に達したとき、その少年は「言葉」と出会う。そして、「うお」という文字から多くの連想を与えられる。水の中を自由に泳ぐ魚の姿が、少年の心の中で躍動する。しかし、老人の一人が少年に語りかける。魚というのが、どんな味がしたかといった即物的なことを。その瞬間に、少年の中で魚という概念が変質してしまう。水の中を自由に行き来する自分の姿を思い浮かべることができなくなる。
「魚の少年」は、そうした、ある意味では観念的な世界を描いた作品である。坂口氏の初期の活動期間は、休みの国のそれと、時代的には近かったのではなかろうか。相互に意識し合っていたとは思えない。それでも休みの国の「第五氷河期」と坂口氏の「魚の少年」は、当時の時代背景を共有しているのではないかと、僕には思える。
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「第五氷河期」
凍てついた地上のパニックの中で
嘘をつかれて忍び泣く
言い伝えはあったよ
でも 夢はなかった
いつまでも 影だけが
さまよい歩く この地上
読み取れるだけの文字と
聞き取れるだけの言葉で
世の中はできているのさ
お前は生きていたか
汗は 流れたか
いつまでも 影だけが
さまよい歩く この世界
(高橋照幸「第五氷河期」より、全行引用)
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うろ覚えの記憶なのだけれど、最初にURCから出された休みの国の、リアルタイムでの唯一のアルバムは、高橋照幸氏が弾き語りで歌った録音に、後からジャックスのメンバーがバックの演奏をかぶせたものだという話を目にしたことがある。(ただし、お互いに交流はあったらしい。) この、高橋照幸氏(通称海賊氏)が、休みの国というユニットの中心人物であったようだ。1970年前後に出したアルバムは一枚のみであったが、印象的な曲が多い。
先述の「戦争の犬たち」という映画の冒頭で使用されたのは、「悪魔巣取金愚」(「あくまストッキング」と発音する)という曲であり、「誰が知っていようか 奴らの腹の底/何も見えないほど 真っ暗なのに/風の吹く野原に立って/死体の数を数えている」(高橋照幸「悪魔巣取金愚」より、部分引用。) 歌詞の内容を受けとめれば、映画作品に込められた逆説的な意味は明確に伝わってくる。僕は知らなかったのだけれど、高橋照幸氏自身が、この映画に出演していたそうである。
さて、休みの国の歌で、僕がもう一曲、とても好きな歌の歌詞を引用してみよう。この曲は、小室等氏が率いた六文銭の解散コンサートで、六文銭によってカバー演奏された音源も、キングベルウッドというレーベルから発売されている。
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「追放の歌」
誰もいない でこぼこ道を歩いてく
空の水筒も こんなに重いと思うのに
俺の背中にこだまする 人々のあの歌が
歓びの歌じゃない 追放のあの歌
昨日は 俺もいっしょに歌っていた
俺の背中にこだまする 人々のあの歌が
歓びの歌じゃない 追放のあの歌
昨日は 俺もいっしょに歌っていた
こんなに暗く長い道の真ん中で
あけてしまった缶詰を また眺め
救われたと信じても 煙草の煙が教えてる
休みの国はまだ遠い 静けさなんてないんだ、と
まだ聞こえてる遠い追放の歌
(高橋照幸「追放の歌」より、全行引用)
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「昨日は俺も一緒に歌っていた」「追放の歌」を浴びせられながら、石をもて追われる気持ちなど、僕には想像もできない。しかし、そうした感情が歌われていることに触れることで、誰かが救済された時代もあったのだと、そう僕は考える。
追われるもの。排除されるもの。
保守であるか革新であるか、反動であるか前衛であるか、そうした二元論に僕は興味がない。けれども、何かを絶対的なものとあがめて、それ以外の立場を排除してなかったことにするような、そうした発想には僕は抵抗する。先述の六文銭のカバーの他に、西岡恭蔵氏やディランⅡのメンバーが参加したアルバム「オリジナル・ザ・ディラン」(キングベルウッドから発売)でも(メロディーを変えて)カバーされている。人口に膾炙し、大きくヒットするような曲ではなかったが、共感を誘う要素があったのであろう。
20世紀の終わり頃であったか、21世紀に入ってからであったか。URCの音源が再発売されたとき、未発表であった休みの国のアルバムが数枚出された。(URC倒産以前の、リアルタイムでのアルバム発売は、一枚のみ。) その際の、個々のアルバムの、細かな情報は覚えていない。倒産以前に録音された音源であったのか、それとは別個に録音された音源であったのか。ちなみに、URCのアルバムの再発は、複数の組織から何回も繰り返して行われているが、その都度過去になかった新しい音源が公開されることも多い。
その背景には、こんな事情がある。URCという組織に関しては、その理想は高邁なものであったが、音源の管理に関していろいろな問題があった。
ただ、休みの国に興味を抱いてくださった方々に対しては、最初にレコードで発売されたオリジナル以外の、例えば「トーチカ」や「ミッドウェイ」などのアルバムにも興味を抱いていただけたら嬉しいなと思う。
世界はけして、安直に触れられる情報という「コンテンツ」とやらのみで成立しているわけではない。その背景には、人の目に触れられる機会に恵まれなかった作家の、数多の試行錯誤が溢れているのである。
話題は、表現の媒体としてのURCという内容からシフトしていってしまうのだけれど、音源の扱いの粗雑さは、さまざまなトラブルを生み出す。
URCの末期に出された、「関西フォークの歴史」という、二枚組3セット(トータル6枚)のオムニバス・アルバムがある。文字通り、関西フォークの歴史を辿ることが可能な、秘された音源を集めたような企画でもあった。しかし、収録された音源の演じ手に、許諾を得ていない発売であったらしい。
後にCDで再発売された際、一部の楽曲は削除されていた。
また、竹中労氏とのトラブルもあった。竹中労氏についても、今はもう説明が必要な時代かもしれない。竹中英太郎氏という画家の長男として生まれた。英太郎氏に関しては、僕は「百怪、我ガ腸ニ入ル」(三一書房)でしか触れていない。昭和初期の雑誌「新青年」等で、江戸川乱歩氏や横溝正史氏などの作品に挿画を描いた方である。そのご子息である竹中労氏は、反骨のジャーナリストでもあった。
余談が長くなってしまい、とても申し訳ないのであるが、「ザ・ビートルズ・レポート」(雑誌「話の特集」の別冊であったらしい)いう、伝説の書籍の参加者の一人でもある。この本は、複数回復刻されている。1964年、ザ・ビートルズの来日の折に、その厳重な警備態勢が「安保関係の来日要人の警備の予行演習ではないのか」という危機感から、当時の気鋭のジャーナリストたちが取材を始める。しかし、そこで出会っていくのは、メディアで歪められた報道をされている「アイドルに軽率に浮かれている奇矯な若者」という先入観とは別の、繊細で傷つきやすい未成年たちである。一冊のまとまったルポとして出版された本は、当初の目論みを離れ、むしろ今よりも社会的な規制の厳しかった時代に、声にならない言葉を掬い上げた出色のルポとなっている。
やや余談に流れてしまった。竹中労氏は、ある意味で大杉榮氏のようなアナーキストの精神を真っ当に、受け継いでいく。 そうした立ち位置の竹中労氏が、力をこめて集めていた春歌の音源。それらは、1970年頃にも貴重な存在であった。もう老いていて、2度と録音を残せないような、文字通り市井の歌い手が歌ったもの。当時はけして日の光を浴びることがなかったそうした歌のいくつかが、URCからアルバムとしてシリーズ化された。しかし、URCの倒産に際してなのか、録音テープが行方不明になるという事態が発生する。細かい事情に関しては、僕は知らない。最終的には、テープが発見され、変換し、和解に至ったという話を聞いたおぼえはある。しかし、記憶は定かではない。ただ、そうしたトラブルを引き起こしてしまうような作品の扱いの粗雑さ、著作権関係の危うさを、URCというレーベルは抱えていた。
僕自身は、URCのレコードを後追い気味で聴きながら十代前半を過ごした。そして、当時は憧れの対象であった歌い手たちに、今では批判的な視点も持ちながら、影響を受けて育ってきた。この連載の中で長々とURCについて描くくらいの思い入れは持っている。
けれど、一方で著作権や音源の管理に関する杜撰さという点について、きちんと検証していく作業もまた必要なものではないかと考えている。何となれば、URCから発刊されていた季刊誌「フォーク・リポート」が休刊を余儀なくされた後、レコード購入者への特典として配布された「唄・うたう」というミニコミ(今でいう「zine」)の中で、URCの社長であった秦政明氏は、歌を商品化することで、発し手と受け手との距離を遠ざけてしまったことを反省する内容を語っているのである。秦氏に関しては、毀誉褒貶のある人物である。しかし、この時期に秦氏が反省の内容として語ったことが、表現に携わる人々、作者と聴取者のみならず、それを流通させる人間が共有できていたら、URCという組織が存在したことの意義は、とても大きかったのではないかと考えられる。表現の受け手を、単なる「消費者」としてしまうことへの危惧がそこには綴られていて、それは情報伝達の手段が発達した現在において、大きな意味を持っている。
表層的な意味では、例えば、本来は独立した価値観を維持するものであったインディーズ・レーベルが、特定のライブ・ハウスと癒着してしまうことで生み出されてしまったステイタス。(RCサクセションの忌野清志郎氏が、そうした「業界の体質」を批判した曲をうたった結果、「インディーズでの発禁」という事態を導いたという、最早笑い話にしかならないような話題もある。) そして、この辺りの話題を掘り下げていくと、創作者を「商品」として使い捨てていこうとする媒体という問題が浮上してくる。
さらに掘り下げていけば、表現者が「自分が何かを描くことの意味はあるのか」という自省を経ないで、「誰でも表現活動が可能になる」という現象への自省もあった。
本来は、尊厳をもった個人という存在。しかし、何かを表現したいという意志を示した瞬間に、商品としての評価に晒される。その過程の中で、本人にとっては不本意な、多くの色彩を塗りつけられていく。
まるで、過剰な思い込みによる性加害的な妄想のように。
URCという組織の功罪について、もっと早い段階で、もっと深く検証が行われていれば、後に媒体の抱える問題として浮上してくるような様々な悲劇は避けられたのではないだろうか。そんなことを思ってやまない。これからも考えていかなければならない課題は、いくらでもあるのではないだろうか。
この連載の中で、URCレコードについて、かなり長く書いてきてしまった。
URCについては、実はまだまだ語りたいことがいくらでもある。まだ、触れていない作家も多い。そうしたことを踏まえた上で、あえて。
ここで少し特定のレーベルから離れて、今回話題として取り上げたジャックスの話題を含めた、日本のロックの創成期についての話題に転じようか。少し、日本の「ロック」についても書き残しておきたくなった。といっても、ジャズ喫茶の全盛の時代や、GSの時代などに、僕は明るくない。
これまでと同じく、不確かな知識で、あやふやな話を続けていくようにしよう。
二〇二五年 二月 六日