「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと(13)」奥主榮
4 日本のロックに関して誤って語られていること
(1) そもそもロックって何だろう
この連載の初期に、ボリス・ヴィアンというフランスの作家のことを書いた。その多才さに関しては、既に紹介している。音楽評論家として、ジャズが全盛の時代からロックンロールがその位置を奪っていく時代を経験している。
そうした時代を、僕は自分自身の実体験としては知らない。
なので、見当違いのことを記述してしまうかもしれない。しかし、何度か述べたように、僕は音楽に関する「専門家」ではない。だから、誤謬に関しての訂正が行われることに抵抗はない。そうした気持ちで、この連載を続けている。
ジャズの生演奏に耳を傾けることが出来る店が、1960年代(あるいはそれ以前)には東京のあちこちにあったらしい。(今でも健在な場所はある。) クラシックを高音質で聴くことが可能な名曲喫茶と同じく、ジャズ喫茶というのも営業されていた。
こうした時代の生活を描いた(今では忘れ去られた)漫画家に、永島慎二氏がいる。
貸本漫画という、娯楽性重視の媒体の中で、若い漫画家たちの「娯楽性を求められながら、作家性を発揮したい」という苦悩を描いた「漫画家残酷物語」という連作短編が代表作とされる。ただし、その代表作の中でも、初期の話には「気のきいたオチのある短編」という色彩が強かった。(内外の「ウィットに富んだ」と冠せられるような映画等の影響もある。)
そうした過程を経て、徐々に創作者という孤立した立場の、不安定な在りようを描く連作へとなっていった。
自分の未来に対して、確固とした確信を抱いている若者など、存在しないと僕は思っている。もしも、自分をそうした存在であると思い込んでいる輩がおれば、僕はそれを勘違いだと思う。僕自身がそうした不安定さを抱えていた時期に、永嶋作品と出会い、幸福な思いを味わった。
しかし、当時積極的に漫画評論を行っていた、極めて先駆的な存在であった呉智英氏は、永嶋作品に対して「若い頃にかかる麻疹のようなもの」という、否定的な意見を公けにしていた。僕にとって、呉氏のこうした視点は、自分が陶酔したものに対してもまた疑義を向ける契機を得るという意味で、有益なものであった。
僕は、自分の考えを絶対的なものとは思っていない。むしろ、様々な意見に触れてどのようにでも形を変えていく、不確かなものであると考えている。(変節漢というそしりを受けようが、かまわない。)
「漫画家残酷物語」という連作の、終盤のいくつかのエピソードは1960年代の後半という時代を、とても象徴的に描いている。安保条約に対する批判の強まる政治の季節、声高にイデオロギーによる「正しさ」が喧伝される時代の中、党派的な何ものにも自分を委ねることが出来なくなっていく個々人を、永嶋氏は描いた。(それは、1980年代になってから公開される大森一樹監督による映画作品、「ヒポクラテスたち」にも通じる、確固とした座標を失ったが故に、真剣であろうとすればするほど喜劇的な泥沼にはまり込んでいく群像を、先駆けて描いたものでもあった。)
「漫画家残酷物語」の中のエピソードには、頼りない自分の希薄な存在感の中で、ジャズ喫茶で流れる音楽に身を委ねる主人公が描かれる。「ジャズ」というのは、そうした位置づけの音楽でもあったようである。
そうしたジャズに代わって、新しい音楽が生まれてきた。ロックとか、ロカビリーと呼ばれたジャンルである。この時代についての知識は、僕は皆無である。ただ、同じ頃に流行っていたらしい「カントリー&ウェスタン」というジャンルの歌い手は、僕が思春期の頃(1970年代)まで活動を続けていた。「ルイジアナ・ママ」という曲を、中学の頃の僕は、「昔のヒット歌手がラジオ番組に出演して歌う曲」として耳にした。ちなみに、この曲は、初期のキャラメル・ママによって、替え歌としてカバーされている。(アルバムには収録されていない。コンサートにいらした方へのサービスのような演奏であった。)
と、詳しく知らない音楽ジャンルについて、どう書いていこうかと悩みながら下書きを進めていたら、面白い映画に出会った。デビュー当時(1961-1965)のボブ・ディランを描いた、「名もなき者」という作品である。物語の冒頭、ウディ・ガスリーが入院したという新聞記事に触れ、マンハッタンの(たぶん)グリニッジ・ビレッジ辺りにディランがやって来るシーンから始まる。そのとき入るカフェの周囲で、「フォークとカントリーの違いは?」といった議論が展開されている会話がちらっと入る。この二つの音楽スタイルの違いというのが、当時の東海岸の若者たちの間でも議論の対象になったのかと思った。そうした話題の中には、ハンク・ウィリアムズ(アメリカの代表的なカントリー歌手)の名前も出てくる。そして、確かにウディ・ガスリーやピート・シガーといったフォーク歌手と、カントリー歌手の歌には何か微妙に異なった感じがある。(1970年代から'80年代に人気のあったロック・シンガー、レオン・ラッセルには、ハンク・ウィリアムズの曲のカバーのみを収録した「ハンク」というアルバムがある。レオン・ラッセルは、カーペンターズのヒット曲として知られる「ア・ソング・フォー・ユー」の作詞・作曲者でもある。僕自身は、「STRANGER IN A STRANGE LAND」という曲が、とても好きなのだけれど。)(「STRANGER IN A STRANGE LAND」は、ハインラインのSF小説「異星の客」のオリジナル・タイトル。ベトナム戦争礼賛のような「宇宙の戦士」を描き、保守的な作家と思われていたハインラインが、それまでの作風とは異なるように見える、「月は無慈悲な夜の女王」「悪徳なんかこわくない」といった、ある意味でアナーキーに見える作品群を描きはじめる最初の作品であった。真偽のほどは定かではないが、ジョン・レノンがこの作品の映画化を夢見たというエピソードを、どこかの雑誌記事で読んだことがある。)
映画「名もなきもの」は、公民権運動(黒人にも白人と同等の権利を保証するべきだという趣旨の運動)やベトナム戦争に対する抗議活動が行われていた時代背景も描いている。そうした中で、まだ二十歳そこそこの無名のディランが、フォーク・シンガーであるウディ・ガスリーに憧れ、その病床でウディへの敬意を歌うエピソードから始まる。先述のように、政治的なプロテストの意味を含んだフォークと、無条件な郷土愛に満ち溢れたカントリーとは、スタイルは区別しがたく、しかし何か決定的な違いがある。ちなみに、映画の最初には、ピート・シガーが反米的な歌をうたっているということで弾劾されている法廷の描写もある。(この頃はまだ、レッド・パージ、いわゆる赤狩りの時代だったのである。) (念のための注釈。赤狩りは冷戦下のアメリカで行われた、米政府による思想弾圧である。) ピートは、友人であるウディ・ガスリーの「我が祖国」を「反米的でない歌」として歌おうとする。(この曲に関しては、連載の初期でも触れている。)
上京してきた(いや、NYに来たのだから、上京ではなく上紐とでも表記すべきか)ディランは、徐々に「フォーク・シンガー」として認められていき、評価される。しかし、当然のことなのであるが、周囲から評価され、その対価として求められる姿を保つことを求められるのと、表現者としての自分から湧き上がる衝動に従うこととは相反する。こうしたジレンマに目をつぶれば、世間と妥協した、そこそこの成功者と成ることも可能である。
しかし、安定した地位を得ることよりも、自分を貫いた結果トラブル・メーカーになることを選んでしまう人間というものも存在する。それはけしてカッコ良いものではない。ある瞬間に周囲から見放され、どん底に落ちていってしまう可能性のある生き方なのである。
映画は、そんな状況に自分を追い込んでいくディランの孤高の哀しみを静かに描いていく。「知られていないってこと」という、ディランの代表曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」の歌詞の一節が、この映画の題名に冠せられていることの意味が、物語が展開していくにつれて露わになっていく。
単に、規格外の才能を持っているが故のしんどさを描いていたのであれば、この映画は凡作になっていたであろう。冒頭の、ウディへの表敬訪問とでもいうべき、自分が心を動かされた相手への敬意を描いているからこそ、この作品は人の心を動かすのである。そうした敬意があるからこそ、それを乗り越えた表現を模索していかなければならない孤独。踏襲(あるいは模倣)では絶対に満たされることのない、描き手としての飢え。そうした葛藤を抱えているディランは、どこからどう見ても、厄介で面倒な存在でしかない。彼は、制御しきれない過剰な何かを抱えている。
だから「フォーク」という枠組みを壊し、新しい音楽の世界へと踏み込んでいく。映画の中で、その行為は先達がスプーンで行っていた作業をシャベルで行う人間が現れたというセリフで描写する。
この映画の中で描かれている、スタイルを破壊することによって自己実現を可能にすることや、周囲の思惑を誰よりも敏感に察知しながら、それを踏みにじることしか出来ない苦痛。自分が自分である為には、周囲との関わりを諦めなければならないような状況。個人が、自分であることを放棄して、社会的な存在となることを賛美されるような価値観。しかし、社会性という気持ち悪い強迫観念に反しても自分で在りたいという一つの精神の葛藤。
「名もなき者」という映画には、そうした様相が、若い頃のディランの姿に重ねて描き出されていた。勿論、優れた作品の常としてこの映画は多様な解釈が可能である。政治と音楽の関わりを軸とした視点。あるジャンルでの新しい波と、それに抵抗する古い流儀との対立に着目した視点。そして何よりも、自分のやりたい音楽に規制を被せられていく若者の苦痛といった視点。大きな評価を受けるが故に、幸福な恋愛関係が構築できない不幸に着目する視点。何よりも、スタイルを変えながら自分の音楽を模索していく道のりを描いた、ある意味では冒険物語のような映画として捉える視点。そうした、幅広い解釈が可能なのである。
多様な受け止め方が可能な作品であることを踏まえて、僕は改めて考える。
「新しい音楽」が生まれてくる。その音楽を受容したいという意識の中に、音楽のスタイルだけを模倣したいという思いと、新しい音楽を通してそれまで可視化されなかったもやっとした気持ちを形にしたいという気持ちの、双方が存在したのではなかろうか。
例によって話が脱線してしまった。(とほほ。) カントリーとフォークといった話題はさておこう。それ以前からの、洋楽の影響を受けた音楽の流れの話であった。ジャズからロックへの移行といった話題である。
少し視点をずらしてみる。
後に、コメディアンとして活躍していく、クレージー・キャッツも、ザ・ドリフターズも、そもそもジャズ・バンドとしてデビューしている。この二つのバンドに関しては、クレージー・キャッツの方が先行していた。ともに、音楽を介したギャグをメインにステージを勤めていた。ただ、彼らの登場以前にさかのぼっては「冗談音楽」と総称されるような曲の演奏者の存在あがった。フランキー堺とシティ・スリッカーズというバンドである。このバンドは、アメリカのスパイク・ジョーンズ&シティ・スリッカーズというバンドのカバー等をしていた、クレージー・キャッツのメンバーの何人かは、フランキー堺の企画に参加している。どちらのシティ・スリッカーズの代表作も、「ウィリアム・テル序曲」の演奏ではなかろうか。威勢の良い音楽を、拳銃の発射音やうがいの音も交えた演奏で披露する。「ヒットする」という意味では成功していなかったものの、オリジナルの楽曲も残している。しかし、「お笑い」というジャンルに分類されるが故に、使い捨ての音楽と思われていた。こうした、世間様の真っ当な評価からは低く見られるような、「見世物みたいな余興」という音楽も、かつて日本には存在した。でも、そうした表現に対して、僕は敬意を払っている。
さらに話を脱線させよう。
後期のザ・ドリフターズのメンバーであった志村けんさんが亡くなられたとき、礼賛の言葉が連ねられた。しかし、僕はお笑い芸人という敬意を払うべき対象が、「俗悪なもの」とそしられた時代を知っている。
僕は、蔑まれながら舞台を続けた方々の姿を、けして忘れたくない。むしろ、「あんな馬鹿なことをしている」とか、「教育に悪い」と罵声を浴びせられ、蔑まれながら人々を楽しませ続けたことこそ語り伝えたいと、個人的に思っている。娯楽を享受する人々は、どれだけもてはやした相手でも飽きれば見放すという冷酷な側面も持っている。芸人というのは、そうした呵責のない評価を受ける世界を生きているのである。
同時に、正当に評価されないまま、あるいは名前さえも忘れ去られながら、それでも後から思うと「楽しかった」という思い出を残しえることもまた、コメディアンの栄光であるとも、そう信じている。僕は、芸能の世界とはそうしたものだと考えている。
そうした「芸」の世界に、妙な求道性を持ちこんでしまった、小林信彦氏の「日本の喜劇人」は、芸能の世界を妙に堅苦しくして、さらに逆行させた悪書だと思っている。あの本は、見苦しい権威主義意識の具現化でしかない。(対となる著書とされる「世界の喜劇人」は名著であると、僕は感じている。) むしろ、1980年代にまとめられた、クレージー・キャッツに関するムックのような雑誌に再録された、ジャズの全盛時代にリアル・タイムで書かれた小林氏の生々しいレビューの方が、ボリス・ヴィアンのジャズ評論と同じような、時代の熱気を味わえるような感触で描かれている。(僕は、敬意を払っている先達に対して、ときに否定的な文言も綴る。しかし、けして否定しようといった感情は抱いていない。むしろ、何度も読み返し、影響を受けているからこそ、かつての自分が熱狂した内容から、新しい足跡を記したいと思っているのである。)
ちなみに、僕は自分が「詩を書く」という行為を、芸術的な活動などとは思っていない。「芸能」であると思っている。世間から蔑まれ、「くだらないことをしている」と罵声を浴びせられようと、自分が描く詩を必要としている誰かが存在していると信じて、詩を書いている。(そのこと自体を嗤われようと、僕は構わない。僕は、芸能として詩を語り、あるいは騙り続ける「かわらもの」で在り続けていたいのだ。)
どうも筆が滑る。余談ばかりが多くなってしまう。話題を戻そう。
ジャズからロックへの時代を、僕は自分の実感として体験していない。ましてや、カントリー&ウェスタンやロカビリーというジャンルに関しては、ほぼ知らない。ただ、先述のキャラメル・ママの歌のように、僕が実体験した作家たちが遺伝子として受け継いでいたものなのであろうなと考えている。
さて、1960年代の前半に、ザ・ビートルズがデビューする。この辺りの事情は、実はとても説明するのが難しい。というのは、メディアに注目されるようになった頃のザ・ビートルズは、そのファンの「非常識な熱狂」ばかりが取り沙汰されるバンドとして注目を集めた。
音楽を聴くというよりは、演奏会場で大騒ぎをしでかす女性ファンの異常な行動ばかりがクローズアップされるバンドとして喧伝されたのである。奇矯と思われる行為に至る切迫感は、全く顧みられなかった。この時代には、女性、ましてや年少の女が自己主張をすること自体が「非常識」という風潮もあった。また、欧米ではヒエラルキーに基づいた「女性の振る舞い」という幻想(あるいは偏見)が残っていた。そうした意識は、日本的な価値観の中にも残っていた。自己主張を始めた若い女性を、メディアは醜悪で奇矯なものと捏造し、類型化した。個々に尊厳のある人間を、「こういう連中」と貶めた。そうした「偏見」こそが、ザ・ビートルズに熱狂するしかない追いつめられた人々を生む背景であったことにも気が付かないで。
当時、「話の特集」という雑誌の別冊として企画された、「ザ・ビートルズ・レポート」という一冊がある。元々は、圧倒的な人気を誇るザ・ビートルズの来日に関わる警護体制が、その後に準備されている日米安保条約に関わる要人の来日の際の警備の準備なのではないかという発想から企画された一冊であった。
しかし、若く情熱を忘れていないジャーナリストたちは、「奇矯な行為をする軽薄な若者」というファンのイメージが虚構であることに目を向けていく。取材を重ねていく中で、「それまでの自分が語り得ぬことができなかった思いを伝えてくれるバンド」に魅了されたファンを、正しく伝えようとしていく。先入観に基づいたルポルタージュでありながら、そうした書き手の意識の変化が、読んでいる人間に感動をもたらすレベルにまで止揚していく。ビートルズ映画を上映したことをきっかけに、ファンの若者たちの繊細な心に触れた映画館主が、出会った若者たちの交流の場としてファンクラブ作りをしていく話なども、印象的である。
現在、ザ・ビートルズの来日公演関連の動画は、前座の演奏も含めて、容易にネット上で検索しえる。その前座として登場する方々の姿も、確認することが可能である。(この公演の映像等に関しては、一時期は、権利関係が複雑で商品として販売不可能とも言われていたような記憶がある。) そうした(かなり著作権関係は危ういのではないかと思われる)動画で確認すると、喜々として歌っている内田裕也氏の歌はけして世界に通用するような英語ではなく、むしろコミック・バンドと割り切ったザ・ドリフターズの演奏の方が一般性を持っているのではないかと思える。(主観的判断である。) 後に内田裕也氏は、日本語のロックを否定する根拠として、「日本語では世界に通用しない」ということを論拠とするが、そもそも内田氏の英語力では、繊細な表現活動など不可能であったと思う。
後に内田氏が主演を務めた映画「コミック雑誌なんかいらない」(監督は、滝田洋二郎氏。ただし、内田氏は共同脚本の一人を担当)は、アメリカでも公開される。当時、僕は二か月余りの滞在でマンハッタンにいた。そのとき、宿を提供してくださった友達のアメリカ人に、映画の感想を聞いてみた。(僕は、「コミック雑誌なんかいらない」は好きな映画であった。) けれど、異なる文化圏で生活する相手は、一言で済ませた。
「日本的なコンテクスト(文脈)を知らないと、意味不明の映画だね。」
否定的な意味で記述してるのではない。自分がいったい、何を表現したいのか、誰もが手さぐりであった時代の、それぞれの描き手の葛藤を、僕は感じるのである。(そうした意味で、誰もがジレンマをおぼえていたのであろう。) いや、過去の話ではないであろう。現在でも、完成された表現などというのは存在しない。何かを表現しようとするものは、永遠に暗中模索の中にあるのではなかろうか? ちなみに、内田氏は1970年代の後半から、日本語で歌を積極的に公開していく。代表的なものとして、僕は高橋伴明監督の『TATTOO<刺青>あり』を挙げたい。単独で銀行強盗を行った男が、犯行現場に立てこもる状態に追いやられた末に、鎖された場所で、猟奇的な行為を行ったという事件を題材にした映画である。しかし、高橋監督の視点は、加害者が肌に入れていたTATOOという点に着目している。(現在と異なり、TATOOは、社会制度に不適合な人間の表徴であった。) 気の弱い人間が、胸だけに記した小さな刺青を自分を大きく見せる道具として、非力な自分を大きなものと見せようとして生き延びようとする。ヒモ同然の生活をしている主人公が、生活の伝手としている女性が病気になったとき、優しい振る舞いをみせるシーンは、とても切ない。この映画は、竹中労氏から、TATOOに対する考え方が誤っているという批判を受けていた。けれど、僕は逆に、TATOOというものを勘違いした主人公の映画として受け止めた。(高橋監督の映画は、後の「光の雨」なども含めて、批判を受けることが多い。でも、批判が生まれることによって、新しい作品が生まれることもある。
ザ・ビートルズの出現以前から、父親と一緒に米軍ベースでの演奏をしていた、かまやつひろし氏は、次回の原稿で触れるようにGS(グループサウンズ)ブームの中で、ようやく脚光を浴びる。しかし、それ以前には、「その他大勢」のミュージシャンの一人でしか無かった。題名は忘れたが、GSブーム以前の映画で、かまやつ氏が「モブ」的な歌い手として登場しているのも拝見した記憶がある。
かまやつ氏の残されたものに関して、今は忘れ去られている部分が多い。
その辺りから、日本の「ロック」について語っていこうか
二〇二五年 二月 二三日