「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと(14)」奥主榮

2025年05月28日

   (2) 日本のロック・創世記(その1)

 僕のこの原稿は、かなり偏って視点から描かれているということを、僕は自覚している。また、誤謬に基づく記述もあるだろう。ただ、これまで日本のポップ・ミュージックに関しては、音楽に関する視点からのみ語られ、周辺的な文化やスタジオやバックステージのスタッフを含めた考察というのは、余りされてこなかったように感じる。そうした事情に関して、僕が特別に詳しいわけでもなく、けれども未踏の大地に鍬を打ち下ろしていくことで、何かを残していけたらと願っている。
 僕自身は1950年代の音楽状況をリアル・タイムで経験していない。けれど、その時代についても語ろうとしている。
 虚言癖の爺とそしられてもしょうがない。

 たとえば、1960年代に存在した、「アゴラ」という集団について、僕は殆ど知識がない。
 いわゆるURC系のミュージシャンの多くが身を置いていたグループだという。ただし、そのメンバーの中で、南正人氏だけは、周囲の方々が一様にURCに参加することに抵抗を感じていたらしい。けれど、そうした経緯に関して、僕は殆ど知らない。
 南正人氏は、作詞作曲者として大きな業績を残している。「海と男と女のブルース」(別名「横須賀ブルース」)や、「こんなに遠くまで」という楽曲は、多くのカバーを生んでいる。なんとなれば、1971年の中津川フォーク・ジャンボリーでは、後に童謡やCMソングなどで知られることとなる、のこいのこ氏が南正人氏のカバーを歌っているのが記録されている。そして、おそらくこの演奏を間接的にであるか耳にした、SF作家の平井和正氏がその著作の中で歌詞の引用を長々と行っている。
 南氏は、RCAからレコード・デビューしている。後にキング・ベルウッドからキャラメル・ママのバッキングのアルバムを、再デビューのような形で出している。しかし、その直後に薬物関連の事件を起こしてしまう。
 ただ、僕はそうした背景の事情に暗い。だから、詳細には触れない。

 僕がこの連載でまとめているのは、僕が知っている限りの、ほんの一部の内容なのである。細かい部分の誤謬や、勘違いについての訂正が後日行われていくことに、何の抵抗もない。(むしろ、自らを誤りのない記述者のようにかたる方々に対しては、強い抵抗をおぼえる。)

 さて、本題である。
 かまやつひろし氏は、米軍の基地での演奏を経験していたと記憶している。父親と一緒に、ベースめぐりをされていたのではなかっただろうか。映画「ブルース・ブラザーズ」には、観客が舞台の演奏者に不満を抱けばビールの空き瓶を投げつけるようなライブ・ハウスが描かれる。もしかしたら、そうした環境で演奏の腕と、音楽的なセンスを磨いていたのではなかろうか。

 ザ・ビートルズが登場して以降、日本ではその模倣バンドの促成栽培が流行る。いわゆるグループ・サウンズのブームである。初期のザ・ビートルズはコーラス・グループという色彩を強く持ち、グループ・サウンズの多くもハーモニーを重視した演奏をした。その中で、かまやつ氏は、ザ・スパイダーズというバンドの一員となった。そうして、ようやく創作者としての才能を開花させていく。というか、優れた音楽の送り手であることが、徐々に人々に理解されていく。何がと問われると説明に困るのだけれど、ザ・スパイダーズの曲は何か他のグループ・サウンズとは異なっていた。
 一言で言えば、「しゃれていた」のである。何というか、「ここが聞かせどころ」みたいな山場を設けずに、演奏全体を聴かせるようなスタンスがあった。それが、僕はとても好きだった。
 聞かせどころを設ける描き方が悪いとも思わず、否定もしないが、「山場」というのは、どこかあざとく、野暮ったい側面もある。

 これまた、僕の好きな漫画家の園山俊二氏。その作品「ギャートルズ」が1970年代にテレビ漫画になって放映されたとき、かまやつ氏が曲を付けた。エンディングに流れる曲の、無気力さに僕は魅了された。
 園山氏が、原始時代を舞台にした「はじめ人間 ギャートルズ」を描き始めたとき、「絵を描き込むのは面倒だから、地平線だけを背景の舞台にしたい」と思ったというインタビュー記事を読んだ記憶がある。(原始時代を舞台にした「ギャートルズ」には、大人向けの雑誌に連載されたヴァージョンと、子ども向けの学習雑誌に連載されたものとがあり、内容はかなり異なる。)
 そうした作品の主題歌として、「なんにもない なんにもない/まったく なんにもない」(歌詞は、かまやつひろし氏によるもの。部分的な引用である。)という歌詞を被せたのである。ちなみに、この歌は園山氏が逝去された直後の、追悼的な原画展示の会場でも流されていた。
 園山作品の本質を捉え、最も的確な曲を提供したのではないかと思っている。
 ちなみに、GS(グループサウンズ)のブームが去った後で、かまやつ氏が整髪料のコマーシャル・ソングとして手がけた曲の歌詞は、「ネコのひげ ぴっぴー・はっぴー/近頃のネコは ネズミと友達」(記憶による引用。ネットで検索すると、この引用とは異なる歌詞が出てきて、作詞は伊藤アキラ氏、作曲は筒美京平氏となっている。) これもまたとぼけた歌で、今でいう「脱力系」の先駆的な楽曲であったのではなかろうかと思う。

 例によって話がずれてしまうのであるが、こうした妙に肩の力が抜けた歌が受け入れられた1970年代の初めという時代は、その直前の殺気だった「政治の時代」に多くの人が疲れていた時代でもあった。数多くの方々が理想を追求して参加していた政治的な闘争が、圧倒的な弾圧の中で行き詰まり、暴力的な内部闘争へと変質していってしまった時代であった。
 同時に、今ではブラック企業と弾劾されるような組織の在り方が賛美されていた時代でもあった。しかし、そうした時代に終わりを告げるようなテレビ広告が放映され、高く評価された。石油会社(実質的にはガソリン会社)が放映した、「気楽に行こうよ 俺たちは/焦ってみたって 同じこと」という曲が流れ、燃料切れの車を押しながら旅している二人の若者の映像が映し出される映像であった。(曲を作ったのは、連載の初期に僕が批判的に扱ったマイク真木氏。歌っていたのは、この連載の後に触れるザ・モップスのリーダーであった鈴木ヒロミツ氏。)
 戦前から続く、滅私奉公的な価値観との決別を宣言するような発想であった。しかし、確かこのコマーシャル・フィルムの監督は自死している。それは、少なくとも僕には衝撃的なことであった。たしか、自分が描いた理想的な世界と、現実とのギャップの大きさに、良心の呵責を感じてということであったと記憶している。

 なんだかんだ言いながら、1970年代までという時代は、息苦しい時代だったのである。妙な禁欲性というものが礼賛され、無駄な我慢をすることが美徳とされるような時代であった。「政治と関わる」という選択は、この時代にはある意味、踏絵のようなものでもあった。
 1963年の夏休み明けからの一年間を描いたフランス映画に、「ペパーミントソーダ」がある。制作されたのは、1977年らしい。フランスの女子校の日常を描いた作品ということで、思春期の女性を描いた作品なのかなと思いながら、この映画を観た。しかし、予想に反して、当時の政治状況をとても繊細に描き込んだ内容であった。確かに、ティーン・エイジャーの異性に対する興味といったエピソードも多い。しかし、その傍らでエディット・ピアフやケネディ大統領の死なども織り交ぜられていく。植民地出身の生徒に対する学校経営者の差別的な言動も描かれる。
 そうした中で、今で言うヘイト・スピーチを行うような人々への抗議を行った方々が、警官たちに暴力を振るわれた様子を語る生徒の描写は、印象的である。目の前で行われた、自分が実際に目撃した暴挙について語る彼女に対して、他の生徒はさほどの興味を示さない。授業終了のベルとともに、次の教室へと移動していく。
 伝統という言葉を使えば聞こえは良いが、伝えられてきた価値観を順守する固定観念。過去から受け継いだもの以外は何もかもが空虚だという強迫観念が生み出す、差別主義的な発想。実は、社会的な秩序の裏にあるのは、そんなものだと僕は思っている。
 映画の中で、狂言回しとも言える姉妹の姉は、差別的な勢力が幅をきかせれば、やがてユダヤ系の自分にも危害が及ぶのではないかと思い至る。監督の「自伝的」と評される映画を最近始めて観て、僕はこの時代のフランスで「女が政治を語るな」という意識が支配的であったことを知った。

 社会的な「常識」という圧力は、加害の側が想像もつかないほど凄まじい。当事者でもない人間が、過剰に「この表現に傷ついた」という風潮には、僕も抵抗を感じながら、もっと見えにくい細部に目を向けてくださる方がおられたらなと、そう思うことがある。それも、重箱の隅をつつくような形ではなく。
 ルイ・マル監督の晩年の作品に、「さよなら子どもたち」という作品がある。ドイツに占領されていた時代のフランス。寄宿生の学校で、ユダヤ人の(とても人格者である)教師がいることを、学校関係者は生徒も含めて、見過ごしていく。しかし、思いがけないことで彼の出自がばれて、拘束されていく。あらすじだけ辿れば、とても「感動的」な作品である。でも、僕はこの映画を実際に観たときに、割り切れない思いを抱いた。
 寄宿学校での、恵まれた階級の生徒たちと、同じ場所で厨房の下働きとして使われている同世代の少年。物資が不足している状態での、食糧の横流し。生徒たちも下働きも、どちらも加担しての行為であったにも関わらず、処分の大きさの差は明らかなのである。
 しかし、映画は不当解雇されたようにしか思えない少年が、腹いせにした「あそこにユダヤ人がいる」という密告が生み出した「悲劇」という点にのみ収斂していく。名作と誉れ高い作品であったのだけれど、僕は、なんだか鼻白んでしまった。
「確固とした価値観が存在する」という、そんな観念は、「誰かを排除することによって、自分が安寧を得られたら」という発想と紙一重である。
 僕は、新しい価値観を渇望する一方で、それがもっと若い方々によって乗り越えられていくものであることを夢想している。

 ということはさておいて。

 かまやつひろし氏が活動を始めていた時期、まだGSも存在しなかった。多分、映画「ブルース・ブラザーズ」のような、気に入らなければ酒瓶を投げつけられるような場所で演奏をしていたのかもしれない。
 そうした演奏場所を、かまやつ氏は、父と一緒に巡りながら、スタイルとしては受け入れ場所のない「表現」をされていたのかなとも思う。

 あまり目を向ける方もないのであるが、かまやつ氏の残された業績は凄まじい。
 GSの参加者として、数多くの流行歌を生み出した。流行歌を生み出せる才能は、礼賛されるものであると、僕は思っている。
 さらに、確固とした価値観において、評価すべきアーティストに機会を与えた。これは、かまやつ氏の業績として、もっと評価されても良いのではなかろうか。典型的な例としては、バイタリス・フォーク・ヴィレッジというAM局での担当番組で、はっぴいえんどの解散コンサートの録音をオン・エアした。(そもそもこの解散コンサートの司会の一人は、かまやつひろし氏であった。) このAM局の番組では、レコードとしては発売されなかったキャラメル・ママの数十分に及ぶ演奏が紹介されている。この曲では、松任谷正隆氏による(当時人気があった)キース・エマーソンばりの演奏が披露されている。このときの、かなりプログレッシブ・ロックに近い演奏を聴いている僕は、キャラメル・ママからティン・パン・アレイへの流れが、ポップな曲調のバンドとして片付けられることが残念でしょうがない。このコンサートについては、後に詳述する。(例えば開場が45分遅れたことから、最後のはっぴいえんどの演奏が会場の使用時間終了の21時を超えてしまい、延長して使用する交渉の為に、かなり第三部の前の休憩が長くなったことなど、余り触れられていないエピソードが多くある。)

「日本のロック」の起源に関して、いつの間にか「はっぴいえんどが嚆矢」という言辞が横行している。しかし、僕はとても違和感をおぼえている。何故先行する「ロックバンド」が複数存在したにも関わらず、はっぴいえんどというバンドが認められたかがきちんと検証されないままではないかと思うのだ。その結果、「もっと前に、誰それがいた」という指摘ばかりがくり返されていく。しかし、はっぴいえんどが高く評価されることには、いくつかの理由があるのである。
 そもそも「ロック」とは何なのであったのか。
 そうしたことを考えるとき、改めて思い返さなければと思う方々が、数多く存在する。

 とか書きながら、ちょっと現在でも通じるのではないかという、「過去に例のない表現は、発表場所がない」という話に触れていこうか。

2025年 5月 5日





奥主榮