「一人の詩人の死」奥主榮
二十歳の頃に出会った一冊の本がある。
「ほんやら洞の詩人たち 自前の文化をもとめて」(晶文社)である。何人かの共著になる一冊なのであるが、実はタイトルが同じ「ほんやら洞の詩人たち」というアルバムが、日本のインディーズレーベルのはしりとも言えるURCから出ている。
URCは、大手のレコード会社からは販売できない内容の曲を、自主制作という形で売り出した会員制の組織から始まった会社である。一九六〇年代後半から七〇年代にかけて、多くのアーティストを発掘した。著作権をないがしろにしていたことに対する批判もあるが、一方メインにしていたフォーク・ソング以外にも「ほんやら洞の詩人たち」のようなアルバムを出していたことは高く評価されても良いはずである。片桐ユズル、有馬敲、秋山基夫という三人の詩人の朗読を収録している。当時、オーラル派を自称し、詩の朗読活動を続けていた。
片桐ユズルは、英語教育に関する著作でも知られている。また、(これも批判はあるのだが)晶文社から出ていた「ボブ・ディラン全詩集」の翻訳者の一人でもある。
有馬敲は、一九六〇年代後半に、いわゆるプロテスト・フォーク(社会の不正などに抗議する意味で歌われた歌)とも関わりのあった方である。当時のフォーク・シンガーたちよりも一回り以上年上であったが、洒脱なユーモアによって、当時の若い人たちから慕われていたという。
秋山基夫は、三人の中では最も激しい作品を書いていたと僕は思っている。晶文社からの書籍の中で、上下二段組みで四ページにわたって続く詩作品「ニホン語は乱れているがそれでいいのだ美しいのだという題にしておくか」という題名も長い詩がある。この詩では、正しい日本語という強迫観念に対する嫌悪感を描きながら、徐々に秋山の郷里である岡山で使われている言葉へと集約していく。
おかやまのおばあちゃんはパスに乗ってデバートにもアバートにもゆくんじゃ
わたしのがきどもはコチョレートばあくうてちっともめしゅうくわんがな
ベットでもベッドでもええがな
おまいはズルムケ国のヘッドライトで何を監視するつもりなら
詩人検察官閣下 閣下におかせられては秩序のねどこで安らかに眠りんちゃい
ニホン語よおまえの乱れこそお前の姿だ
(秋山基夫「ニホン語は乱れているがそれでいいのだ美しいのだという題にしておくか」、晶文社刊「ほんやら洞の詩人達」より引用)
原稿用紙一枚にも足らない引用なのに、ワープロ・ソフトがご親切にもあちこちに朱を入れて下さる。けれど、僕には彼の詩はとても共感できる。「詩人検察官閣下」という言葉は、言い得て妙である。
順序は後先になったが、片桐ユズルの詩には、こうした激しさはない。「あさじが原」という作品は、溝口健二が「雨月物語」で描いた上田秋成の作品とも共通するモチーフを扱っている。溝口が、映画という娯楽メディアを意識して伝奇的な要素を強調しているのに対し、片桐は詩という枝葉を切り落とした表現の中で、戦乱に巻き込まれた市井の人間の哀しみを描き出す。
有馬敲は、あるいはフォーク・ソングが好きな方なら作者を意識しないで耳にしたことがあるかもしれない。氷菓ガリガリ君が二〇一六年に二五年ぶりの値上げをしたときのテレビCMに、有馬の「変化」に高田渡が曲を付け「値上げ」とタイトルを変えた歌が流されたのである。ちなみに、僕は中学時代に何気なくつけていたラジオでこの歌を初めて聞いて、聞き終えた瞬間笑い転げていた。「値上げは全然考えぬ」に始まり、微妙に言い方が変わっていき、最後には「値上げにふみきろう」と言い方が変化していく。こうした、政治家がよく使うレトリックを逆手にとった諷刺を有馬は好んだ。「長いのがお好き」という作品は、次のように展開する。「日本国」という一行に、連が変わるごとに徐々に続く文言が長くなり、最終的に「日本国と/アメリカ合衆国との間の/相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに/日本国における合衆国軍隊の/地位に関する協定の実施に伴う/土地等の使用等に関する刑事特別法」となった次の連で、有馬は作品をこんなふうに締めくくる。「なんて/きみたちは/長いのが好きなんだろう/足引きの山鳥の尾のしだり尾の/ながながしい条約の自動延長をかんがえる/なんて」。
おそらく、有馬のこうした飄々とした作風が、口角泡を飛ばす政治的議論がされていた時代に、当時の若い世代から好まれた理由ではないかと思う。有馬の作品は、よく曲を付けられて歌われた。URCからは、詩の朗読のレコードの他に「ぼくのしるし わらべうた24」というアルバムも出されている。
「ぼくのしるし」は、有馬のわらべうたの代表作といっても良い作品である。けれども僕は、「うたれたしか」という歌に心を惹かれるのである。
うたれたしかが
やまからにげてきた
うしろかたあし びっこをひいて
さかやのうらごやに
にげこんだ
うたれたしかは
ちいさくなっていた
うしろかたあし かばってすわり
かこんだりょうしへ
つのむけた
うたれたしかは
ついにいけどられた
うしろかたあし まっかにそめて
つなにしばられて
ないていた
(有馬敲「うたれたしか」、晶文社刊「ほんやら洞の詩人達」より全行引用)
「ぼくのしるし わらべうた24」に参加したミュージシャンの多くは、今では忘れ去られた存在かもしれない。けれど、詩の読者が「これを旋律に乗せて歌いたい」と思ったのであれば、詩の作者にとってはこれほどの光栄はないのではと、僕は思う。
ところで、有馬は一九六七年に行われた、フォーク・キャンプというイベントの第二回に参加している。それ以前から、書いた詩が歌われていたということが、書籍の「ほんやら洞の詩人たち」には記されている。断言はできないのだけれど、このフォーク・キャンプは、一九六九年から始まる全日本フォーク・ジャンボリーへとつながる企画だったのではないかと僕は考えている。全日本フォーク・ジャンボリーは、自主企画的なイベントとして始まり、徐々に巨大化していき、一九七一年の第三回で終了する。(厳密に言えば、全日本ではない「武蔵野フォーク・ジャンボリー」や、バブル全盛の時期に汐留のテント小屋で再現されたフォーク・ジャンボリーなどが、その後開催される。)
このイベント、同時期にアメリカでウッドストックのコンサート(こちらも、後世再開催された)が開催されていることから、ウッドストックのマネをして日本で開催されたものだという誤解がある。しかし、調べてみればすぐに分かるのだが、フォーク。・ジャンボリーはウッドストックの、一週間ほど前に開催されている。どちらがどちらを模倣したということよりも、まだ通信手段が未発達であった当時、共通の価値観を持った相手と出会える場所が渇望されて実現した企画だと考える方が妥当だと思う。日本でもアメリカでも、自分の価値観を持つことは非難された時代であったのだから。(先に引用した秋山基夫の詩に描かれたような、詩人検察官閣下のような存在が横行していた時代だったのである。)
有馬敲の詩は、例えば「放送禁止歌」で知られる山平和彦などにもよって歌われている。
僕、奥主榮は一九九六年に詩の朗読の舞台集団、T-theaterを始めた。そのときには、若い頃に聴いたオーラル派の詩人の方たちのことが頭にあった。
その頃、「詩の朗読」というと、町の公民館の一室を借りて勉強会みたいな形で辛気臭くやるイメージがあった。僕は、詩は人間にとって必要なものなのだと主張したかった。ひねくれた子どもの僕が、触れてきたさまざまのものに救われたことを忘れたくなかった。そのときに頭にあったのは、昔詩の世界に自閉せずに、朗読という武器を使って広がりを求めていった方々がおられたということであった。
二〇〇九年に、最初の詩集を出せたとき、有馬敲先生にはとてもお世話になった。
先刻、その訃報にふれた。辛くてならない。
二〇二二年一〇月五日