「不要不急のゲリンピック」コナン

2022年02月17日

ゲリンピックが始まった。世界中から集められたゲリ娘が切磋琢磨する恒例行事である。ゲリ娘はゲリゾンビの幼体で10年ほどアイドル活動をした後にゾンビ化して街を徘徊する。僕も昔はゲリ娘の一員だったが今ではもうすっかりゾンビの身体に馴染んでしまった。基本的にゲリ娘は女子高生である。年齢は17歳。永遠の17歳。生まれた時から17歳。ゾンビになっても17歳。ゾンビにならなくても17歳。何故なら17年前に人類は滅亡して入れ替わりに僕らが産まれたからである。そもそものキッカケは新世紀初頭におけるゲロナヴィールスの流行だった。ゲロナは老化を早める問題があっためゲロナワクチンには老化対策が施された。その結果としてワクチンを受けた17歳以下の子供は17歳以上に成長することがなくなった。正確には17歳以上になっているけれど全ての身体能力が17歳で止まったのだ。 

お肌はピチピチでムダ毛も殆どない。男女ともに同じなのである意味それは中性化とも言えよう。特に低年齢の頃に接種した子供達には影響が強く殆ど性別がないに等しい者も多い。彼らが愛好するのはゲロナヴィールスを題材にした流行歌『ゲロナヴィールスブルーズ』である。「ゲロナヴィールスブルーズ/ゲロにゲリ便/垂れ流されて/こびりついて/コケのムースだぜ」メロディは『君が代』と同じだ。子供達の性別が消えたことにより女系天皇の議論も無意味となった。性別がないから子供が生まれることもない。その代わりゾンビはキノコのように分裂して個体を増やすことができる。既にゾンビ化している天皇も例外ではなく自らのコピーを無限に作れるので子孫の心配をする必要はない。性別がないので結婚する必要もなく皇后の存在はなくなった。結婚する自由はあるけれど子供を作る必要がないので今や結婚は完全なる趣味と化した。趣味の行使について国に届け出る意味はないので誰が誰と結婚しているかは分からない。考えてみれば以前の世界においても誰と誰が結婚しているかなんて分からなかったけれど。

 「石炭をば早や積み果てつ」とは森鴎外『舞姫』の冒頭である。ほぼ古文に思えるが何故か現代文の授業で習った。時代の移り変わる狭間にはそのようなことが往々にしてある。古代ゲリンピックと現代ゲリンピックも例外ではない。現代ゲリンピックはゲリ便の上で行われる。古代オリンピックはゲロがメインだった。選手は全て女性なのでゲロインなどと呼ばれたりもした。現代においても「ゲロインのいるアニメは名作」というように受け継がれている。今回の大会ではゲリジャンプのスイーツ規定違反があった。お菓子を食べ過ぎて生クリームとイチゴだらけの血便とコケのムースが上下両方から出ちゃった。ある意味それは古代ゲリンピックと現代ゲリンピックを繋ぐ架け橋とも言えよう。やはりゲロインのいるアニメは名作なのだ。

「ゲロがゲリと化すスロースリップ現象によって海は肥溜めとなり日本は沈没する」危機を回避するため「新便器ゲリンゲリオン」を開発したものの作画崩壊して終わった。そのような顛末の果てにゲリンピックは復活。ただしその平和は自由を代償とした管理社会の異名に過ぎなかった。「ゾンビは外に出ないで下さい。ニンゲンが困ります。ゾンビは外に出ないで下さい。ニンゲンが困ります」部屋の外から聞こえてくる緊急ゾンビ速報の警報メッセージを聞く度「それをゾンビに言っても無駄だろうに」と思ってしまうのは前世紀からの悪い癖でもちろん知性が高いのはゾンビの方である。ゾンビ人権法案によってゾンビは守られることになったがいっそのことニンゲンをゾンビと呼べば解決するのではないかという流れになり今やゾンビはニンゲンでニンゲンはゾンビである。僕もしがない底辺ゾンビとして欲望のままに徘徊するニンゲンから身を守っている。でもそれはゾンビとニンゲンが入れ替わる前から同じだったように思えてならない。僕はゾンビになる前からニンゲンではなかったしゾンビになった今もニンゲンではない。 

そもそもゾンビとは社会的な死者と見做され自分の意志を奪われ操り人形として使役された者を指すという説がある。果たして僕の人生には自分の意志などいうものが働いていただろうか。もちろん人生の選択肢を自分が決めてきたことに違いはないけれどそれは自分の意志というより他の理由で仕方なく決めないといけないものばかりだった。主な理由は金と健康である。金と健康があれば大抵のことは出来るだろう。知性については金を稼げない程度の知性を知性と呼べるのか疑問ではある。健康も有り余っているなら金を稼げる。頭も体も弱ければ金は稼げない。つまり意志とは資本によって決定されるものに過ぎない。意思を奪われたゾンビとは資本力のない貧乏人の大半が当てはまる。ニンゲンの殆どは元からゾンビでありゾンビ化しても何も変わらないのだ。 

「ブリブリブリ!」突然の大きな揺れに驚いてテレビをつけるとついに富士山が噴火したという。急に画面が切り替わって見知らぬ誰かが僕の名前を呼んでいる。まさかと思いつつ返事をすると「ワシはゲリの神じゃ」という。「それはどのくらい偉いんですか?」「一番偉い」「どうしてゲリの神が一番偉いんですか?」「ちょうどいま富士山が噴火しただろう。あれもワシの力じゃ。噴火とは地球のゲリじゃからの」「なるほど確かに。でもなぜ地球はゲリをするんですか?」「地球だけではない。宇宙のゲリはビッグバンじゃ。ゲリとは世界の根源なのである」「それも何となく分かります。でも何故ビッグバンは起きたのですか?」「もちろん宇宙の根源的存在がお腹を壊したからじゃ。ワシはその存在を火のゲリと名付けた」「それはあなたではないのですか?」「そうとも言えるしそうではないとも言える。後は宇宙人にでも聞いてくれ」

 テレビ画面が切り替わり宇宙人が話しかけてきた。「そもそも宇宙には不要不急なものしかありませんよ」「それってつまり僕らの存在も不要ってことですか?」「もちろんその通り。この世には必要なものなど何ひとつないのです。全ては偶然に生まれて偶然に消えていくのみ」「確かに人が生まれるのは偶然かもしれません。しかし人が死ぬのは必然ではありませんか?」「違います。人間の遺伝子は両親の遺伝子の組み合わせから偶然によって決定されます。その遺伝子の作用によって訪れる人の死も偶然がもたらす結果に過ぎません。必然とは即ち再現性のある事象のことです。しかしながら特定の個体の死を再現することはできません。別の個体が似たような死に方をするとしてもそれは別の個体の死に他なりません」「なるほど分かったような気がします。でもそうするとなぜ不要なはずの人間が産まれてくるのでしょうか?」

「宇宙そのものが要不要という概念を超越しているからです。地球には空気がありますが宇宙空間は真空状態だとされています。その代わりに現代の科学では観測できない暗黒物質で満たされているという説もあります。その暗黒物質こそが人間の魂なのです。人が死ぬと魂は暗黒物質となり宇宙空間を漂います。その代わりに暗黒物質の一部が新たな人間の魂になります。だから人間は生まれるのです。そのサイクルそれ自体には特に意味がありません」「その理屈だと人間の人口が増え続けていると魂が足りなくなるのでは?」「人類の人口など生物全体から見れば大したことはありません」「一寸の虫にも五分の魂って奴ですか」「その通りです」「そうすると僕が今ここで虫を殺したら誰かが産まれるということですか?」「その通りです」「つまり破壊と創造は同じであると」「分かりやすく言い換えれば食事をすると栄養になるということです。破壊された食べ物が身体を作る」「それでゾンビは人を喰うんですね」「宇宙人も喰いますよ」「何を?」「君を」ガブリ!

宇宙人に喰われて死んだ僕の記憶は17年前に遡る。2021年のクリスマスから2日後の夜のことだった。急に気だるさを感じて熱を測ると37度8分ある。ちょうどテレビ朝日の特番『テレビゲーム総選挙』を観終えたばかりで1位が『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』で2位が『ドラクエ5』なのはさておき同じシリーズの作品ばかり何本もランクインしていたのは多様性という観点からどうなのか。それに洋ゲーが殆ど入っていない。世界一売れてる『マインクラフト』はあったものの次に売れている『GTA5』はない。強い残酷描写を含むZ指定は除いてあるのか。まあ確かに映像とか流せないもんな。そんなことをツイートしようと思っていたけれど頭が回らなくなってすぐに床に就いた。

しかし発熱による体の痛みで寝苦しいためいったん起きて再び測ってみると何と39度1分まで上がっている。しかも猛烈な腹痛を感じてトイレに駆け込むと物凄い下痢。常備していた痛み止めを飲んで再び横になったが体は痛いし何度も腹痛でトイレに起きる地獄のような年末となった。地獄といえば先ほどの『テレビゲーム総選挙』について書いた強い残酷描写を含むZ指定の洋ゲーを最近よく遊んでる。PS5のPS Plusコレクションやフリープレイなどで大量に無料配信されているのも大きい。今やっているのは『The Last of Us PartⅡ』でこれはPS Nowで1月3日までの限定配信なので早くやらないといけない。実はPS Nowはダウンロード済みであれば2週間プレイ期限が延長されるケースが過去にもあったけれど全てとは限らない。本作は続編なので前作の『The Last of Us』もクリアしたばかりだ。こちらはPS Plusコレクションに入っていた。 

簡単に言うとゾンビものだけれど非常に映画的な映像美と重厚な物語。ベリーイージーでプレイしたけどそれでも何度か死んだ。横になっていても体が痛むので体勢を変える度にゾンビから身を隠す場面を思い出す。ゾンビから攻撃を受けたらトイレに駆け込む。高熱に浮かされながらそんな妄想をしていた。もともと胃腸が弱いので大便をした時間をメモしていて今回は2021年12月27日の夜から30日の昼頃まで2日半で12回も行っていた。しかも3回は途中で漏らした。こんなことはいつぶりかも覚えていない。この凄惨さはまさに強い残酷描写を含むZ指定。激しい下痢で水分を失い干からびた様はゾンビのようでもある。ゾンビと闘い敗れて噛まれゾンビになっていたのだ。状況を打破すべく体の痛みの和らぐ体勢を探しながらどこかにいるであろうボスゾンビを探し始めた。しかしそんなものはいるはずがない。これはゲームではなく現実なのだ。 

ここはゾンビの跋扈する荒廃した町ではなくただ単に僕だけが一人勝手にゲリゾンビなだけなのだ。そんなことは分かっているけれど何かを支えにしなければ先に進めない。ウンチを3回も漏らした汚名を着せられたまま生き恥を晒すわけにはいかない。相変わらず食欲は出ないので喰っちゃ寝、喰っちゃ寝ではなく出しちゃ寝、出しちゃ寝。そういやゾンビはなぜ寝ずに歩き回ってるのだろうか。もともと死体だから寝ると本当に死んでしまうからかな。そう考えてみると出しちゃ寝であろうとも意味はある。こうして2日半に及ぶボスゾンビ追跡の旅は終わった。ゲリゾンビという言葉は前にも聞いたことがあるような気がして調べてみたら安倍晋三元総理をそう呼ぶ人がいた。ゲリで総理を退任したけど復帰したのでゲリゾンビ。同じ言葉を使って良いものか迷ったけど別の意味で使う人なんてそうそういないだろうから使ってみることにした。それにゾンビ物はウイルスによるパンデミックを描くのが常なのでコロナ禍で2度目の辞任をした彼にとっても無関係な話題ではない。今も政治家ではあるので3度目の出馬を期待する声もあるというからまさにゲリゾンビの権化である。 

なおかつゾンビ物においては政治的結社による圧力というのも大きなテーマのひとつである。荒廃した社会に秩序を取り戻す崇高な理念を持つ一方で暴力的な独裁者として忌み嫌われる様は現実の各国政府をも想起させる。僕がやっている『The Last of Us』シリーズでもゾンビウイルスの感染を防ぐため居住エリアに高い塀を作って生存者を囲い込み戦車を使って見回りをしている。脱走者がいればその場で射殺される。コロナ禍においても人の移動を止めることは懸案事項だったがそれを地で行くような措置である。『The Last of Us』発売は2013年なのでまだコロナは流行ってなかったがSARSは2002年なのでそれ以前のゾンビ物への影響もあっただろう。もちろん凶悪な感染症は更に前のペスト・赤痢・チフスなどもある。思えば人類の歴史は感染症との闘いの歴史でもあった。そういう意味ではゾンビと熾烈な争いを続ける創作物が多数あるのも当然だ。しかもそれは政治的な人間同士の争いにも発展するためリアルな物語の強度を高める。

熱は下がったけどまだ下痢は続いていてトイレの頻度は2時間おきから4時間おきに何とか減ってきたところ。安静にするため横にはなっているけど熟睡もできず相変わらずゾンビの夢を視る。といっても熱が下がったせいか夢の中にゾンビは出てこなくなった。ところが一緒に戦ってきたはずの仲間がどこにも見当たらない。便意を催してトイレに駆け込み下痢便を垂れ流していると現実に引き戻される。仲間など最初からいなかったのだ。これはゲームではなく現実なのだから。ゾンビの恐怖と戦いながら生き抜くゲームの方が現実より人情味に溢れているというのは皮肉なものだ。でもだからこそ人はゲームを作るしゲームをするのだともいえる。現実とゲームの境界線など最初からない。ゲームは現実の中に存在するのだ。現実の中に存在しないゲームなど幻想に過ぎない。それはゾンビにしても同じことだ。

ゾンビについて考えることは人間について考えることに他ならない。『The Last of Us』でもゾンビより対人戦の方が多かった記憶さえある。ただしこれは難易度設定やルート選択などにもよる。戦略として実に楽しいのは政府的組織の人間とゾンビの両方が近くにいた場合にすぐには倒さず物陰に隠れながら両者が殺し合うのを待つプレイだ。大抵ゾンビが生き残るのでそれだけ始末すれば良い。あるいは人生の勝者というのもそういうものなのではないか。勝者同士の煽り合いに乗せられて弱者同士が代理戦争を請け負い最終的に弱者の手元には何も残らない。それに気付かれぬよう物陰に隠れながら上手くやりすごすのが政治的手腕に長けた連中の手口だ。それを知っていても世の中が変わらないのはそれで人類の歴史が続いてきたから。それを阻むようにして襲い来る伝染病の恐怖こそゾンビ物の源泉である。それに加えて天変地異のイメージが荒廃し廃墟と化した世界を舞台にする。実際のところ伝染病によって都市がどう変わるのか分からないけれど少なくとも『The Last of Us』が冒頭のパンデミックから急に20年も経過しているのは荒廃した社会を描くためもあったのだろう。

 神奈川県で自宅療養者への食糧配達政策が中止となり自宅療養者でも外で買物して良いということになった。ショッピングモールを徘徊する感染者ってこれもうゾンビ映画だなと思い至り僕らが今生きている現実は虚構であることに気付いた。もちろんそれは別の自分が他の場所にいると言ったことではなく神的存在による虚構としての現実ということである。つまり僕らは上位存在による創造物に過ぎないなんてことは色んな宗教やSFが既に語り尽くしてきたチープフィクションに過ぎない。でもそのチープフィクションこそが僕らの生きるこの世界なのである。ゾンビのように死んだわけじゃないので人間に戻れるけれど物理的に脳がダメになっていたなら難しい。腸は第2の脳とも言われる。脳をやられた人間がゾンビと化すように腸をやられた人間もゾンビ化するのは当然のことだ。

正露丸は過敏な腸を麻痺させることで通じを減らすという。あえて自らの身体の一部をゾンビ化させることによってゾンビに対抗するのだ。ワクチンのようなものでもある。とりあえず市販薬を買おうと思って最初に選んだのはCMを観たことのある「ストッパ」だったが全く効果がなかったので次に「ピタリット」を飲んだけどやはり何も変わらない。そういや「正露丸」はゲリに効くんだなと思って成分を調べようとしたら予測入力に「危険」と表示されたのが気になり見てみると「発がん性がある」などと医者が書いてる。でもそれは通販サイトの人気上位にランクインしていることと矛盾しているので更に調べてみると「正露丸の成分である木クレオソートには発がん性がない。発がん性があるのは石炭クレオソート。木炭から作られる木クレオソートと石炭クレオソートは全く違う。木炭は木を焼いて作るのに対し石炭は植物が長い年月をかけて変化したものを採掘している」というような説明を薬剤師がしているのを見つけた。

 医者と薬剤師の対立構造のようなものがあることは普段から感じていた。現在通院している総合病院のロビーはかなり広くて会計や処方箋を待つための座席も豊富にある。しかし処方箋を持って実際に薬を調合してくれるのは院外の薬局しかない。病院の近くにある薬局は狭く座席も少ない。大病院の患者は多いので座席は足りず混雑している。正に密である。コロナを警戒すべき医療関係者が患者を密に晒している矛盾。病院の大きなロビーで待機できるならどれほど気楽だろう。病院と薬局を分断させた奇妙な法律の弊害だと聞いたこともある。コロナ禍で密を避けるために今こそ是正されなくてはいけない問題である。この件について医者と薬剤師の見解はどうなっているのか気になるけどそれはさておき正露丸の効果はというとこれが実に良く効いて驚いている。

とはいえ特有の匂いが辛くて辟易してもいる。箱に入ってる時点で匂うのでヤバいなとは思っていて箱から出してビンの状態でも当然ながら臭い。排便の時にも独特な匂いがする。便そのものの匂いとどちらが臭いかは判断に困るが正露丸を置いている部屋とトイレの両方が同じ匂いなのは気持ち悪い。正露丸は戦時中に征露丸といって胃腸の病気を気にせず戦えるドーピングのようなものだったとして件の医者は批判していたけれど現代社会においても色んなものと戦うためのドーピングは必需品だ。カフェイン、アルコール、ニコチンなど。煙草を吸うようにして排便をする。どこでも煙草が吸えた時代には立ち小便をする男性も多かった。公衆衛生という概念が希薄だったのだ。それは日本だけの話ではなくかつてのパリでは排泄物を路上に捨てていたので外を歩く際にスカートが汚れぬようハイヒールを履いたという話もある。大半の人間がゲリゾンビと化した今も当時のパリと同じである。パリゾンビと呼んでも過言ではない。

 長々と書いておいて今更だけどこれは怪文書のようなものだ。どんなに事実を書いても怪文書なら事実も怪異である。ゲリも怪異でゾンビも怪異。幽霊の正体見たりゲリゾンビ。と言いたいところだが幽霊とゾンビは違う。人が死ぬと2つの怪異に分かれる。魂が抜けて思念体としての幽霊になり残った体が勝手に意思を持てばゾンビになる。魂と体の両方が揃っていればそれはただの生きた人間に過ぎない。だがしかしそれは同時に幽霊とゾンビの合体したモンスターとも言えるのだ。だから人間の現実をそのまま書いても怪文書となり人間と妖怪の間に違いなどない。オバケは死なないと言うがそのオバケが元人間なら人間も死なないということだ。怪文書に書かれた人間の魂は怪文書の中に生きている。歴史の教科書に書かれた歴史上の人物は教科書の中に生きている。勝手に意思を持った死体がゾンビになるように間違った内容の教科書で勝手に意思を持った魂も幽霊として教科書の中にいるのだ。言霊とは言葉に幽閉された人々の異名である。ずいぶん昔に詠んだ短歌を思い出す。「世を去りし文豪の名が並びたる我が本棚は墓場の如し」

気が付けばもはや大晦日。いっそゲリミソカの方が相応しい。また昔に詠んだ短歌を思い出した。「うっかりと排便中に年を越し今年流した去年のうんこ」こんな感じだったかな。現物が見つからずうろ覚えだけど。年越しネタの短歌はもっと綺麗なヴァージョンもある。「本を読みながら眠りて気が付けば年変わりたり続き読むなり」これは割と理想的な年越しかもしれない。初出は2003年の旧ウェブサイト。更新は長らくしてない。そんでもってこうなる。「昨年もお世話になったものですが本年もまたよろしく、孤独」高熱については何度かツイートもしたけど0いいねだった。そのまま死んでいても気付かれないままだったかも。有名人じゃないから訃報も出ない。でもそんな些細なことはどうでもいい。100年前の有名人のどれだけの人を君は知っているだろうか。人は生まれやがて死に忘れられていくもの。人知れず世界を救うこともなかった名もなきゲリゾンビの1人として。






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