「何もないことの深さ――小川三郎『忘れられるためのメソッド』(七月堂)を読む」ヤリタミサコ
この詩集に魅力は、どこにでもありそうな日常の"普通"が"普通"のテンポで流れていることだ。21世紀の現在でもないし昭和の東京でもなく、読者の誰でもが自分の日常である、と感じられる生活感。例えばアキ・カウリスマキの新作映画ではどこかの都会の片隅が描かれているが、それは自分の遠い知り合いのような気がするくらいの"普通"の生活。
「傘」という短い作品は、"普通"の会社員の生活の断面がさりげなく描かれている。表面的には何も起こらないのだが、その下には、個人個人の見えない情動や社会経済変動や外国の戦争などの振動が伝わってきている。
会社の廊下の傘立てに
傘が一本
ずっと前から置いてある。
誰の傘か
誰も知らない。
だけど急な雨が降ったら
みんなあの傘で帰るつもりだ。
ある日
傘がなくなっていた。
真っ青に晴れた日だった。
みんな気がついていたが
口にする者は誰もいなかった。
その日の夜
余所の国で争いがあり
大勢人が殺されたと
ニュースが短く伝えていた。
次の日
傘は傘立てに戻っていた。
以上が「傘」全文である。ありふれた忘れ物の傘は誰でもが目にしている。3連目の「なくなっていた」から「真っ青に」にかけては、常識的な連想を裏切っている。傘がなくなったから真っ青になったのではなく、よく晴れた日の形容なのだ。ここでは傘がなくなった小さな動揺を「真っ青」の言葉のウラに隠している。その「真っ青」は外国での戦争報道にも続き、心痛むニュースを見ても、戦争とは別な自分の日常の"普通"の生活が続く。だから、傘が傘立てからなくなった動揺と戦争報道による動揺は、どちらも日常の表面をかき乱すことはない。傘立てに戻った傘のことを喜ぶわけでもなく、ああ、そこにある、と元どおりになるだけだ。とはいえ、前の日常とまったく同じとは言えない。一度なくなった傘には何が起きていたのか、戦争は今後どうなるのか、会社の日常にはわずかな不安が含まれつつ、続いていく。
「夕方」という詩は、平穏な日常に安心する気持と微量の無常感の表現が素晴らしい。「夕方/ひとに混じって/家に帰る。」で状況が提示され、「変化のない暮らしを望んだ。」毎日では、「昨日は/繰り返されることなく/昨日はただ/降り積もっていく。」と終わる。悲しいわけでも辛いわけでもなく、降り積もる昨日を黙って受け入れている人は、悲哀も諦念もなく、昨日が終わって明日になる力動に身を任せている。
「満天の星空」という詩では、超然とした生の終わりの受け入れ方に納得する。「だったらもう/満天の星空じゃなくたって/かまわないんじゃないか。//いくつか星が/あるだけで/それでもう/いいんじゃないか。」と平坦な人生を肯定しようとする。「死んだあとも/それよりあとも/こまることなど/ひとつもないので。」と達観する。諦めたり抑圧したりせずに、自然体で受け入れる。言葉で言うのは簡単だが、自分の心の中で行なうのはかなり難易度が高いと思う。
小川はマイペースな詩風で淡々とした詩を書いてきたのだが、この詩集では、ポンと空気の穴があいたような手応えを感じる。読む前にはなかったのだが、読んだあとでは、世界のどこかで空気の穴が抜けたと感じる。小川らしい穴の開き方に、小さくオドロキ小さく頷く。