「叙事詩という試み②」奥主榮
表現者として、僕にはまだまだやりたいことが沢山ある。そうした「次の目的」の一つが、「叙事詩を描くこと」である。というか、叙事詩を、何度も書こうと試みてきた。
2020年のコロナ禍以前に遡るのであるが、僕は「海の時代へ」という叙事詩を書いてみた。SNSでの分載という形であった。執筆直前に読んだ、鈴木大介氏の書作には大きな影響を受けた。
本来、救済のための制度によって、かえって生活の場を失い、追い込まれていく子らの存在は、僕にとっては衝撃的なものであった。僕自身が「きれいごと」によって傷つけられた、そんな子どものであったことも思い出した。
そのときに感じた激しい感情は、1950年代「貸本漫画」というジャンルで「黒い傷痕の男」というヒット作をものにした佐藤まさあき氏の衝動にも似ているのかもしれない。「黒い傷痕の男」は、土門拳氏の「筑豊のこどもたち」にインスパイアされて執筆された作品である。二次情報とそしられれば、それまでだ。ただ、僕自身が、「制度の隙間から零れ落ちる」ことの経験をしている。不遇な育ちから、犯罪者へと追い込まれていく主人公を、粗い筆で描いている。(後にリメイクされ、初期の雑な描写とは別の作品とは別物となる。) この作品を支持したのは、当時「金の卵」と礼賛された若い労働者たち(低賃金で不足している労働力の担い手とされた上京者は、そう呼ばれた)であったという話を読んだことがある。
その背景に、憤怒という言葉を想起する。
鈴木氏の書籍に綴られていた、「救済できないから、なかったことにする」という、自分が分別があると思い込んでいるらしい大人たちの存在は、僕にはとてもリアリティのあるものとして受け止められた。そうした気持ちの中で、僕の中に物語が湧き上がってきた。
そうした、溢れ出る思いから綴ったのが、「海の時代へ」であった。
なんだか変てこなシロモノになってしまっても、「こういうものを描きたい」と思った作品である。個々の断片の執筆年月日は、記している。時系列順ではなく、あちこち錯綜している日付である。
そうした気持ちと同時に、他人様の著作によってインスパイアされた作品を、どこまで自作として明記して良いのかと悩んだ作品でもある。
四分載という形で、この拙い叙事詩を「抒情詩の惑星」で、改めて公にしようと思う。
僕は今、この作品を「詩の朗読」の舞台に上げることを目論んでいる。そのことによって、朗読詩の可能性を広げられないかと思っているのである。こうした表現手段が全てであるとは思わない。他の描き方に対して優位であるとも思わない。けれど、こんな表現も可能だということで、救われる誰かがいるかもしれない。そんなことを考えるのである。
十代前半の僕は、偶然出会った洋楽の歌詞によって、「こんなふうに自分の感情を表現できる」ということに驚いた。それまでは、自分の中に確かに在る、気持ちを誰かに伝えることなど不可能だと思っていたのである。とても苦しかったことだけは、今でも忘れていない。
「クラスの中に話の通じる相手はいない。」 「同じ学年の中にはいるのだろうか?」 「もしかしたら、学校の中でも出会えないかもしれない。」
そんなふうに幼いガキの妄想は暴走していった。「二三区内にもいないかもしれない」、「それなら都内でも無理だ」、「国内に誰かいるのであろうか」。ネット環境の整った現在では考えられない悩みかもしれない。けれど、一見整備されたように見える場所で、僕らはいつ誰から兇刃を向けられるかもしれないという環境に生きている。
子どもの頃の僕が、現在に生きていたら、「狙いやすいガキ」として、あっけなく餌食になっていたかもしれない。
なんだろう。僕は、子どもの頃の僕が憧れていたような、凶悪なものに負けない表現者でいたいのかもしれない。そうした僕は、十分に弱くて怯えていたくせに、何かを言いたかったという十代の頃の僕に対して、凶悪な加害者と成り得る可能性を持っている。(物議を醸す言い方かもしれないが、「自分という存在そのものが、誰かに対する加害性を持っている」という想像力を、僕は大切なものだと思っている。)
いつも通り、余談に走ってしまおう。最近、「ナミビアの砂漠」という映画を見て、とても印象に残った。その中で、「一人で考えさせてくれ」という登場人物の台詞が、とても印象的であった。彼の同棲相手との間で諍いが起きたときに口にする言葉なのである。こうした言い草を、僕も口にしたことがある。老いた今、そうした言い草を自分が口にしていた時期の気持ちを述べれば、こんなものに過ぎない。
「周りから干渉されなければ、僕はいろいろなことを自分一人でやってみせることが可能なんだ。それを妨げているお前たちが、僕の能力を阻んでいるんだ。」そんな思い上がりに過ぎなかったと思っている。当たり前のことだが、自分の虚飾を捨てて相手と向かい合うことでしか解決策は見い出さない。いや、それでも見い出せないかもしれないのである。自分の目の前にあるのは、それだけのものだと受け止めるしかないのである。
閑話休題。話を、僕の朗読叙事詩「海の時代へと」に戻そう。
舞台化をしたいと思って、あちこちへのテキストの配布を始めた。もしもフィードバックを寄せてくださる奇特な方々がおられたら、きちんと反映したいと思っている。なにしろ長時間になる作品なのである。
さらに、この作品に関しては一人単独での朗読では描き得ない舞台となる。そんな気もしている。
あちこちで意見をいただけたらと思いつつ、テキストを渡し、誰か舞台化に協力してくださる方はおられないだろうかと、そう思っている。
二〇二五年 三月 一五日