「周辺シ」クヮン・アイ・ユウ
1-1
詩であるのに、伝えたい・伝わりたい・受け取りたい・知りたい・もっと聴きたい等と思っている。「であるのに」と書くのは、私が個人的に詩をどう捉えているかということと関係が深いと考えている。例えば私は、「雨」と聞けば「傘」や「晴れ」などを連想する。「雨」と聞いて「サランラップ」や「一輪車」を連想しにくい。言葉にはそのものと他の言葉に与えられているイメージや関係性があると思う。コロケーションと呼ぶらしい。
2
それから、こんな電車に乗っていたら、望まなくても書けてしまうなと思った。こうして人の目を気にして書くことをやめてしまう程に狭い所に押し込んで、知らない人間同士家族くらいの距離に配置したら、もう準備は整った。内側からの叫びを感じる。それは叫ばれたものである。叫ぶ予兆や予感ではなく、既に過去となった叫ばれたものだ。
3
エロ動画に最短距離でアクセスする為のブックマークに詩人のホームページを追加した。これで最短距離でアクセス出来る。何を急ぐのか。何かを急ぐのである。
4
今日は仕事で臨時のヘルプが出来た。あれはなんか良かった。役に立った。それで同じ日の夜にはやらかした。「やらかした」と言うほどのことじゃないだろうが、俺からしたら「やらかした」だ。目上の人に連絡して、折り返しの連絡を待つことになったのはいいがいつまで待てばいいかを聞けなかったのだ。俺にはこういうことがよくある。その度「これだから人間が嫌いだ」と吐き捨てるように思う。自らの軟弱さを棚に上げて、同じ人間なのに何でこんなにもアンフェアに頭をぺこぺこ下げて自らを小さく小さくしなければならないのか。俺が絶叫してる。
こんな時にも詩はあった。居る。そう感じて、上で丁寧に書いた文章の後にこれをくっつけている。何かそれが大切なことだと思われて。感情に任せて。
5
また日が経った。冬は嫌だなと思う。真冬に生まれたのに寒さには弱いし、生への諦念が増すから。なぜかわからない。年末も年度末も、人生の明暗を明らかにすることとも関係しているのかも知れない。
自分を幸せにしたり得をさせたり有利にする方に何故か美しさを感じられず、まぁそれは主な原因ではないけれど、とにかくそんな風に自らの人生をコントロール出来ない。冬の海に近づいていくようにハンドルを操作してしまう。
6
また日が経った。山を越えて、ご機嫌な休日の前の晩にチャーシュー用の豚肉を買って踊っている。なんて野郎だ。「なんて野郎だ」と思う。
翌日、朝からおでんの準備。
7
彼女にはどれだけ飯を食わしてもらっただろう。新所沢駅前、商業施設の中にあるゲームセンターで働いていた。始業すぐにすることと言えば昨日までに投下されたコインを集めることである。孤独だった。恋人との日々は、その暮らしの淡さより激しい赤が際立っていた。俺はこんなところで何をしているんだろうと馴染みのない駅前のベンチに腰掛けて、腹が膨らみそうだからと選んだ安くて甘いパンをかじっていた。恋人が恋人と二人で眠るベッドの一段下で、夜が白い朝に変わっていくグラデーションを知った。焼かれる想いをしながら。
久しぶりの再会の尊さを消費したのはさもしい心だった。燃焼のないものには燃えかすも出ない。後から割り勘の請求があり、真の別れが随分前に済んでいたことを知る。
8
会社でインスタントラーメン食べると不味い。会社で一味を使うと辛い。
(ヤッテミテネ)
9
明日も働きに出て行く場所があります。自分が社会で五日間、日に八時間も働けることが当たり前とは思えないです。動けず、過ぎて行った日々を想います。起きたら既に昼前で、酷い時には昼も過ぎてもう夕方で、「今日やってしまった」感で覆われます。鈍く、晴れのない、苦しみです。色々あり正社員にはなれませんでしたが、二五歳でようやく社会に出てからは、長いお休みもなく二つ目の仕事を続けられています。相変わらず定期券(半年分)の購入時期には憂鬱で、"未来の約束なんて出来ないよ"なんて心の声が胸に響いて、その声は「のび太君」のそれで再生されています。つまり泣いています。
10
雨が止んだ。昨日までのすべてが洗い流されたような朝に新しく生まれ直して、そんな、心持ち。この詩情とは何度目だろう。雨の日の翌朝にこうして出逢うのは。強いられているものではないので、筆をおいて前を向き歩き始める。「空気が美味い」、反射的に言うのも滞る時勢に。
11
VR世界で使われる「@無言」という名前に与えられた役割がいいなと思った。現実世界ならヘルプマーク等も一つの表明だろう。
例:クヮン・アイ・ユウ@無言
(これで語らない私、あるいは語れない私を表せる。無反応が失礼とならない)
12
喧嘩して、素直に誤りを認めた上で語る「寂しかった」や「悲しかった」、「ほんとうは仲良くしたい」というあの言葉、あの時涙は前振りなく一気に流れ出る。あの時の自らの魂には鮮度や経年という概念を感じない。
13
「天気の子」で、あるキャラクターが涙を流していることを指摘されるシーンがあり、そこでただ一人突然笑い出す観客が居た。私はこの素晴らしい作品を見る度にそれを思い出すが、私はその人の心をも知りたいと思う。大切なことだと思う。
14
今日の昼も生きている俺のことを、火曜夜の俺も水曜朝の俺も考えてなんかいなかった。この連続で生きていくのだろう。定期券購入は未来との約束のようで昔から苦手だ(また言ってる)。
15
ベッド・インまでのボルテージ、相手と自分で異なるかも知れない。相手は幾らか前に迎えていたのかも知れない。異なるパズルがはまっていくまでの幾つもの確認作業。恋。身体が離れる前と瞬間とその後の言葉を覚えているの。完璧な形が完璧さから離れていく。同じを確認し合って恋を高める作業から、違いを理解し合って愛を深めるphaseへ。一つ一つの小さかったり大きかったりする痛み、引っ掻き傷やささくれ、大きな穴から、なお終わらないで此処に居られるということ。
16
会社では報連相以外の会話を滅多にしない。話しかけられたら返答する。返答の後に同様の質問をこちらからはしない。プライベートに入らない。退勤。今日、何か話したっけ。例えばある日の終業時間と共にそのまま退職出来るような、荷物も少なければ繋がりも深めていない。そんな労働者。友だちは居ない。共同体感覚を共有する仲間が居る。信頼に値する。背中を預けられる。彼や彼女らもまた詩を書いている。詩に希望を抱き、夢を見ている。
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電気もガスも水道も停められてもうどうにもならないから逮捕して欲しくて犯罪。そんな人の存在を、その人の叫びを身近に聞くようになった。俺は10分後に飼い犬と落ち合う。俺が得た愛は俺の実力だろうか。とてもそんな風に思えない。逮捕して欲しくてと考えて行動する時、人を傷つけない方法を選んだその人のこと。その人のこと、忘れて、暖かな部屋で、タペストリーのツリー、電飾がまた温かくて、俺は俺は馬鹿野郎だ。どうしたらいいんだろう。
18
本当はゲームを買ってプレイしたい。お金がかかる。不本意にレトロゲームをしていると悲しくなる。レトロゲームにも失礼でプレイをやめる。いつからか、他人がゲームをプレイしている動画を観ている。多分お金がないと痛感した時からだった気がする。理由はそれだけではないとは思うけれど、確かな一因だと振り返っている。18歳の頃、2004年頃かな。正確な時期はわからないけど、多分2000年前半頃、その頃にうちの世帯収入はガラッと変わった。進学は奨学金で、ゲーム機器に対してはバージョンアップを追えなくなった。仲間たちには、ゲームの進化を追わなくなったことについて忙しさが理由だと話した。
他人が楽しそうにゲームをしているのを観ていると時間が経過する。時間が経つと寝ている。寝ると朝が来ている。朝になると仕事へ行く。奨学金を返して、上がらない給料ではゲームは買えないから人のプレイを観ている。これは別に不満の吐露ではない。正しく伝えたい。悲しみの表現である。悲しいのだ。誰かを妬んだり羨んだりはせず、かと言って自らにも攻撃性は向けない。その時出来る誠実さの一つは、「悲しい」ときちんと言うことだと思う。それで何かが変わらないけれど、私が嫌な私になることは止めてくれる。私は悲しいのだ。
19
馬野さんからお誘いいただき、現運営の湯原さんに場をお借りし、こうして書かせてもらっている。今回月一回ほどの連載ということで、「詩の周辺」というテーマをいただいた。私に書けることを出来るだけ誠実に懸命に書きたいと思った。「周辺シ」と銘打って書いている。詩とは何なのか。詩について、それ自体を書くことよりも、私の日々の途中で紡がれるものが詩であるのならと、こうして日々自体を書くこととなった。日々の想いや思考を書いています。詩以外ばかりを書いて、結果的に詩の輪郭線を浮かび上がらせることになったらいい。よかったら読んでください。ここまでご覧いただき、ありがとうございます。クヮン・アイ・ユウ、大阪在住36歳の人間です。仕事は人様の相談にのらせてもらう仕事をしています。依存状態にある方、障がいのある方、病に苦しむ方、困窮している方、人と関わりを絶っている方、様々な人に出逢っています。その上で、人には本来力があると信じています。希望を抱いています。世界を憎み、悪態をつき、誤り、人を傷つけて来ましたが、まだ少しでも良くなりたいと願っています。希望を抱いています。夢があります。
クヮン・アイ・ユウ
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昔「その距離」というタイトルの詩を書いた。概ね人から嗤われる位置にすら居ない自分について書いた。嗤われたいという訳ではないが、私のことを嗤っている人なんて居ないじゃないかという地点から、自身を見つめ直して書いていこうということだったのだろうか。今では正確にはわからないがあれからもまだ続けている。未だに人に嗤われたことがない。知らないだけかも知れないが。これからも自分を信じて、自らに書かされてゆきたい(「自らで書いてゆきたい」と書いてから書き直した)。
1-2(冒頭1-1の続き)
私は、人が私の言葉を受けて何を連想するかをよく考えるように努めている。より良く伝えること、そして良く知ることに繋がりが深いと考えているからだ。そんな私からは「サランラップ」や「一輪車」が飛躍を持っては生まれて来ない。それを悲しいと思うこともあったが、今はこのまま伸ばそうと考えている。きっと他の人が素敵な跳躍を見せてくれるだろう。飛躍もその先にある。私は地続きの言葉を繋いでゆきたいと思う。派手さのない、名前もない、強いて呼ぶなら歩みを。
21
かなしい時はかなしいと言います。誰かを攻撃したり自らに酒を浴びせたりせず、かなしいと言います。相手が居たらもっと幸せなことだと感じます。相手に「私は〜でかなしいよ。」と伝えます。祈りを無力と思う方も居るかも知れませんが、祈りとかなしいと言うことは似ていると思います。お陰様で、私は大切なものを失わないで生きていけるように思います。
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自らが意味を付与したり定義付けた中での「詩人」の素養について。
素養とは後天的努力により獲得が可能なもの。
相手に対して、知りたい、聴きたいという意思を持つことが出来る。
相手をやり込めよう、相手に勝とうとすることに意識を向けないでいられる。またその意識から行動しないでいられる。
赦すことに、赦すまでに、懸命に悩み苦しむことが出来る。
人間の寿命に縛られない遅効性を信じる力がある。
優しくなりたいといつまでも願い、それが何なのかをいつまでも考えている。
まなざしがあり、行動がある(しないことも含めて)。
やはり何より、他者の痛みを想像することが出来る。
1-3(続き)
残念ながら、「えー!AとBをくっつけるの!」みたいなサプライズは出来そうにもない私だが、「雨」と聞いて「傘」を浮かべるだけでなく、実際に配置だってしちゃう私に出来ることをやって行きたい。だから詩でなくたっていい。とにかく「よく伝わる」、一方で相手から「よく聴ける」、そんな言葉を機能させたい。