「周辺シ 8」クヮン・アイ・ユウ
挨拶から間髪を入れずにそう声をかけられて、しばらくなんのことかわからなかった
直近の俺の行動で思いつくことと言えば失策だ
あの方は亡くなってしまったのだから
その人が言うにはつまりこうだ
早く見つけてくれたのが俺だったから感謝しているとのことだ
俺はそれを聞いても訳がわからなかった
立場が違えばこうも感じたり考えることは違うのか
いや感じることは本来そんなに違わなかったはずだ
考えは所属する組織によって変わり、考えによって感じ方も変わってしまうのかも知れない
人が人でなくなってしまうことの変遷を想う
お気づきの方もいらっしゃるだろうが、今日は句点を打っていない
なぜかってなんだかムシャクシャするからだ
夏の暑さのせいじゃない
前述の「その人」のせいでもない
正直ただよくわからない
仕事へ向かう電車の中でこれを書いている
抒情詩の惑星さんに掲載してもらっている「周辺シ」、今回もしゆるされて幸運にもまた掲載していただいているのであれば、今回で8つ目の作品となる
「作品」と記すことを少し悩んだ
過去の7つは作品だと断言する
それは客観的にどうかということもあるだろうが自身の中での認識の問題だ
そう考えられるかどうかという超俺的な問題だ
そして結局作品とすることとした
その言わばワガママが、ゆるされるなら皆様にも今ご覧いただけているのだと思う
随分前に母から「連絡してやって」と言われた入退院を繰り返す親戚にも連絡が出来ておらず俺は自分自身に腹が立っている
ムシャクシャしている理由を辿るところから始まって、いつの間にかこんなところに居る
結局、理由はよくわからない
「ムシャクシャしてやった、誰でも良かった」という言葉をこれまで何度も聞いたと思う
俺の今、なんでも良かったという気持ちが結果的に句点を打たないというところに向かった
その理由ももうよくわからない
人からすれば大したことではないと思う
ただ、俺は今失礼を働いているように思う
迷惑をかけているように思う
そのままの自らを受け入れて、少し前に亡くなった人に関する出来事を書いた
人が亡くなっても無関係に俺はもう会社に遅れそうだし間に合わせる為に急ぐし雲は立体的で泣きそうになるし
というか泣きそうなんてことはなくて
もう泣いているのだと思うし
蝉は懸命で俺はどうかと問うて
仕事で、金を貰うためにただ生活の為にやってる仕事で出逢った人の死じゃないかと書いたらこみ上げてくるものがあって
俺は他人なのにその人のことだって愛していたんだと認めたい
数年間追いかけたその人は最期までその人だった
俺とその人の間で積み上がった言葉があったのかわからない
俺はその人の問題も不安も希望も理解出来なかったと思う
ただ、繋がっていた
今もその事実があり、俺はもう会社へ行くけど働くけど、ごめんなおばあちゃん
カップ麺が好きで、室内には子どもの人形が椅子に座らせてあって、壁に子どもの写真が飾ってあって、自分の子どもの顔くらいはわかるようにあらんとと言ってて、生き別れた子どもが居るとも聞いてて、でももうどれがほんとなのか違うのかもわからなくて、時々見違えるくらい綺麗な格好で出かけてて、でも行き先は誰も知らなくて、
「周辺シ8」、