「周辺シ 9」クヮン・アイ・ユウ
小学生だった頃は風邪をひいてよく休んでいたなと思う。社会人になってからはほとんど風邪をひかなくなった。あの頃は、親から学校に連絡をしてもらっていて、その時の何とも言い難い緊張感と、静かに、そして確かに抱いている期待感を自覚していた。
微熱がありつつも寝込むわけではなく、比較的体調に余裕がある時などには、突然の休みをちょっとしたご褒美のように感じ喜んでいた。今ごろみんなは学校かぁと思いつつ教育テレビを観ていたことが多かったと思う。中でも工作の番組が好きで、視聴しながらよく真似事をした。あの時代、いったい幾つ作ったのだろう。新聞紙チャンバラ刀。半分ズル休みのような感覚を抱きつつ休んでいるところもあるので、もちろん戦う相手は用意出来ない。それに粗悪品だったし、情熱が日を跨ぐことはなかった。それは自らの才能の不足を知らされることだったし、もしかしたら自らのズルさにも幾らかの苛立ちを覚えていたのかも知れない。
テープで補強されたそれは解体するのにも面倒で、色々足掻いた結果、太ももに当てて二つに折り曲げて捨てた。ゴミ箱から顔を出すそいつはこちらをずっと見ていて、自らの凡才を知らされる不都合な事実だった。そしてこのこともまた、詩へと向かう一つの道だったと思う。
詩や言葉は、私を救命救助してくれるものだと思う。最近思うのは、詩が救命艇なら、言葉は救助艇かも知れないということ。ただのチャンバラ刀一つが上手く作れなかったという痛みを、実は私が未だに抱いているということを認める。認めたいと思う。そして未だ言葉には救命救助されている。
昨夜は言い表し難い虚しさや哀しみに覆われて苦しんでいた。どうにも抱え難いそれらをツイキャスで話すことによって発散させようかと思い悩んだ。泣き言が言いたいと思った。愚痴と泣き言の意味の違いを調べて、幾らか救われたことも覚えている。結局放送は行ったのだが、その前に歯を磨いたことが良かったのか、気がつくと放送前に想定していた内容とは異なる、希望を語っていた。シャワーとか歯磨きとかって何か脳に作用するのかな。よく創作のアイデアが浮かんだり、こうして切り替わったりすることが多いので。
ちなみにツイキャスの開始を知らせる文言に「泣き言」と予定したものは「あした」となった。明日も生きてゆきたい、ゆこうという想いからだったのだと思う。ありがたいな。
放送の中では幾つか昔に書いた以下三つの詩を朗読した。
「がんばらなきゃ」
「抱きしめて」
「Slow-acting Peace」
前述した放送を聴くことが出来るリンクを参考に文末に掲載しておきますので、よろしければお聴きください。ツイキャスには「夢の島」という機能があるようです。いいですよね、夢の島。行ってみたい。って話が逸れちゃった。夢の島行きが決定されると、ある程度時間が経過したら聴けなくなるみたいです。その時はごめんなさい。
皆さま、今回もここまでご覧くださりまして、誠にありがとうございました。
「あした」
https://twitcasting.tv/kwnaiyu/movie/775517016
Waves
波の
小さな波紋が
ひろがる
波乗りのアメンボ
僅かに高くなる視点
その程度の
変化を
違いを
あの街々では
大切に
されているだろうか
あの街々で
大切に
してゆけるだろうか
「抱きしめて」より抜粋