「周辺シ 10」クヮン・アイ・ユウ
インターネット上に詩などが投稿出来るサイト、いわゆる投稿掲示板の中で、私がこれまでに利用させていただいたのは以下の2つのサイトである。「詩投稿サイトFor you」、「B-REVIEW」。
前者については何年間お世話になったのか正確な数字がわからないのだが、確か今から10年ほど前の、私が20代の頃に数年間利用させていただいたと思う(当時は今のペンネームとは違う名前で活動していた)。15歳から詩を書き始めて、当時で10年以上は続けていたことになっていたので、そろそろ公の場に投稿してもいいかなと何となく考えたことがサイト利用の動機だったと思う。
後者については、2023/9/21時点の自分の日記に「6年7ヶ月と2日弱」と利用期間の記載があった。まぁ色々あり、今はその利用もやめている。
そう言えば前述の投稿掲示板の他に、現在ディスコードではサーバーを利用した作品投稿・情報交換・雑談など、色々な種類のチャンネルを使った活動が活発になっているようだ。実際に私も最近ご縁をいただき、人様がホストを務めている複数のディスコード内のサーバーにご招待いただいた。確かに結構盛り上がっているなと感じる。このサーバーの面白いところの一つには、前述の投稿掲示板とは違い、半分は秘密基地的でありながら、あとの半分は誰でも入室可という面があるように思う。投稿掲示板では、基本的にサイトにアクセスさえすれば誰でも中を見ることが出来たと思う(投稿やコメントをするとなれば会員登録が必要だったが)。しかしながらディスコードでは、サーバーへアクセスする為のリンクを知っている必要がある。リンクを踏むとそこにはアクセス申請のボタンがあり、押すと同時にサーバーに入ることが出来るといった具合だ。申請後に審査や許可という段階を経ないところもまた面白いなと思う。その為上では半分秘密基地的うんぬんと書いた。ホストの方が自身のSNSのプロフィールに同リンクを掲載していることも多いので、直接の知人でなくてもサーバーの存在を知る可能性は結構ある。今のところ私が知る限りにおいては、投稿掲示板に比べて場の乱れにくさがそのメリットとしてあるように思う。具体的な根拠を挙げてその理由に迫るというよりは、ここでは感覚レベルでの主観による推察にとどめたい。
まぁあれこれこういった流れもあり、現在は「場」について思うことがある。実はむかし、「不可視を映すーヒトアリウムー」というイベントを主催していた。確か2015年頃だったと思う。当時はプラネタリウムというものの功績に思うところが多くあり、そのものへの敬意がイベント名を付けるときに強く働いたことは間違いないと振り返っている。宇宙や星に対する人の憧れは、そこへ向けられるポエジーは、その知識量によらず普遍的なものであると思う。例えば冬の大三角形を知らなくても、やはり美しいものは美しいのではないか。もちろん、これには色々な考え方があって、知識のうえに体験が重なり、強い感動が生まれるということを否定するものではない。ただ、何も知らなくても、空を見上げて美しいという感動もまた否定されるものではないだろうと思うのである。
私は今これを書きながら電車で移動しているのだが、私が記した文章とか詩とかを車内に居る人たちに見てもらって、それが響く人がどれだけ居るのかということを考える。対して、車内をプラネタリウム化することについて想像する。星空が多くの人々の胸を打つであろう場面、あるいは少なくとも好意的な感情を抱く人が多いということが容易に想像出来る(夜や暗さが怖い人も居るとは思う)。星が綺麗と感じる時に発生するポエジーは、あるいは星が放つポエジーは、それ程普遍的なものなのだと思う。例えば私たちは犬派で、猫派で、爬虫類派で、生き物が苦手派で、きのこたけのこ論争においてはきのこ派だったりたけのこ派だったりする。みんな違う。好みも嫌いも暮らしも貯金も推しも違う。でもなぜか、星が綺麗と一緒に心を震わせたりすることがある。そういうプラネタリウムの公約数的、あるいは包括的な力には凄いものがあると思う。私の文章や詩ではとても敵わない。とても敵わないのだけれど、当時の私はそんな場を作りたいと思ったのだと思う。胸を借りるつもりで、助けてもらうつもりで、ヒトアリウム、人の為の場所という名前を付けた。
ありがたいことに、イベントには詩人、ミュージシャン、役者、臨床心理士、母親、ただの普通の人と名乗る人、パフォーマーなどなど、色々な人が集った。オープンマイクというイベントなので、一応各自一度はステージに立つ。もちろん観覧だけもOK。パフォーマンスの鑑賞はもちろん良かったのだけれど、今振り返ると際立つのは、終わった後のお茶の時間だったと思う。お酒を飲む人も居たし、お茶を飲む人も居た。おでんを食べる人も。色んな属性の人がそこには居た。何と表していいのかわからない、とにかく人々が自由で、安心して語り合うあの空間は、宝だったなと思っている。
私は今もずっとそのような場を求めているのかも知れない。これは自分ごととして、一方この社会に生きている中で感じることとしても、そういった場がもっと必要なのではないか、あるいはあった方が多分いいよねという感じを抱いている。この感じというのは大切なものだと考えていて、この感じを信じてやって来たし、これからもやっていきたいなと思う。なんだろう。理屈とか根拠とか説明とかから離れて、私、これ大事だと思いますって伸び伸び発言する感じ、そのようなもの。
マッチングというものとは逆の考え方に何かヒントがあるのではないか。もしかしたら私たちは正しく効率良く出逢うことに慣れ過ぎたのかも知れない。そんなことを思う。音楽も人も興味関心もプレゼントも、あまりに多くのものについての「関連性プレゼン」を受けていて、選んでいるようで選ばされているような感覚を抱くこともある。私はこれを本当に選んでいるのだろうかというような。合わない・不快感を抱く・相手のことがわからないという地点から、それでももう少し話をしてみるとか、耐えてみるということがあってもいいのかも知れない。もちろんこれはある種の有意義に生きようだとか、あんな可哀想な人のことはもう放っておこうというような、ある側面から見た無駄を省いて生きようとする生き方を否定するものではない。私の個人的な方針のようなものであり、またある種の提案なのかも知れない。
ここまでご覧いただいた方、今回もありがとうございました。周辺シも今回で10個目です。ここまで良く書けたなと、そして載せてもらえたなと感じ入るものがあります。ありがとうございます。