「坂口尚氏の仕事」奥主榮
僕の、「抒情詩の惑星」での別連載である「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと」の第12回の中で、坂口尚氏という漫画家について少し触れた。これまでも僕は、このエッセイの中でレコード・ジャケットの装丁に関わった方々について触れたことがある。そうした際、なるべく同じ原稿の中で、そうした作家についての補足説明は済ませるように心がけていた。
しかし、坂口尚氏に関しては、それが出来なかった。残し、そして忘れ去られた業績が余りにも大きすぎるのである。日本のロックやフォークについての、僕なりの小史をまとめておきたいという本来の趣旨から、大幅に逸脱してしまうためである。
そこで、稿を改めて坂口尚氏の仕事について触れていくこととする。
坂口尚氏のお名前を、僕が初めて意識したのは、1970年代の後半、「奇想天外」というSF雑誌の別冊の誌面であった。ちなみに、この「奇想天外」という雑誌は、何度か廃刊や復刊をくり返していたのではなかろうか。十代の頃のおぼろげな記憶なのだけれど、初期には結構ウィアードな翻訳作品を中心としていた時期もあった気がする。やがて復刊した「奇想天外」は、ある意味ではSF雑誌がポップな装いとなる先駆けであったかもしれない。それまでは、SF雑誌というのは、マニアックと呼べば体裁は良いが、コアなファンによる鉄壁のアカデミズムに守られたジャンルでもあった。ある意味、とても排他的な側面も持っていたのである。(といって、それが悪いとも言い切れない。何となれば、中学一年のとき僕は、「SFマガジン」に掲載された荒巻義雄氏の「大いなる失墜」を読んで、深い感銘を受けたのである。太陽からのエネルギーを万遍なく利用する為に、木星を解体し、太陽光を受ける巨大なドームを建設する。そうした物語は読み取り得たが、内容は非常に難解な作品であった。しかし、僕はこの美しい文章によって構成された世界に触れることによって、「散文詩」という言葉の意味を理解した。)
そうした、ある意味では堅苦しいSF作品の世界に比べて、「奇想天外」というのは、もっと軽いノリで出された雑誌であった。
「SFの楽しさ」というのを伝えたいという雰囲気が強く伝わり、僕は好きだった。
やがてアメリカ映画「スターウォーズ」が公開されることによって、「SFブーム」とやらが訪れた。といって、「ブーム批判」などというくだらないことを書くつもりはない。ブームは、明らかにそれまで活動の場が無かった作家が、作品を発表できる場を形成した。事業拡大した奇想天外は、やがてSF漫画の特集を組んだ別冊を刊行した。その最初の一冊に、「魚の少年」というタイトルの作品が掲載された。(初めは一号だけの「別冊」扱いであったが、後に定期刊行の関連雑誌に発展する。) 「魚の少年」が掲載された際には、昔の作品の再掲載だという添え書きがあったと思う。
古い作品。しかし、それは当時の僕にとって、とても新しい作品であった。
内容はこんなものである。
子どもが生まれず、老人たちだけが生きている世界。(人口増加に悩んでいた1970年頃に描かれた作品である。人口増加が問題になっていたのは日本に限ったことではない。当時の外国のSF映画でさえ、「ソイレント・グリーン」や「赤ちゃんよ永遠に」といった人口爆発をテーマにした作品が公開されていた。中華人民共和国は、まだ「一人っ子政策」を採る前であった。) そんな時代に坂口氏は、人類が生きる活力を失った社会というものを描き出した。これは、やはり地球人が生きる活力を喪失した未来社会を描いた藤子F不二雄氏の手になる「老年期の終わり」に十年ばかり先行していた。ただ、坂口氏の描き方は、遥かに抽象的で詩情に満ち溢れている。
無気力に老いた人々が、過去の遺産のような食料を探し、かろうじて生きている風景。そんな荒廃した子どもがいない社会の中に、ある日、唐突に赤ん坊が現れる。(母親となるような若い女性は、既に存在していない世界である。) 老人たちは、新しい生命を歓迎する。子どもは、祝福されて屈託なく育てられる。その子は、過去の人々が残したものの中から、様々なものを好奇心のままに探索していく。やがて、文字に興味を持つようになる。そうして、「うお」という言葉に出会う。少年は、うお(魚)という、既に枯渇している水の中を泳ぐという存在から連される自由さに憧れ続ける。しかし、老人たちは、食糧源といった魚の即物的な価値しか語らない。少年は、そのことに深く傷つく。その結果少年は心の潤い、自由な連想を喪失させられる。
大切に育てられながら、その大切にされることの中で、徐々に違和感をおぼえ始める少年の自意識。すれ違いの中で決定的な齟齬が生まれてしまう哀しさ。そうした繊細な感覚を描いた作品であり、まだ十代であった僕は、この短編漫画に魅了された。
この作品が掲載されたとき、誰かから坂口氏は「失踪していた漫画家」という噂を聞いた。漫画好きな友人からであったのか、徐々に出始めていた漫画を分析的に批評する雑誌に掲載された誰かの文章であったのか、記憶は不確かである。(1970年代の半ばまで、「漫画評論」というものそのものが存在しなかった。漫画が表現手段の一つとして認められ始めた1960年代の半ばからの十年余り、少数の例外を除いて、漫画の評論は知名度の高い文芸評論家や映画評論家の「余技」として大手の出版社から依頼される仕事に過ぎなかった。
その後に知ったのは、坂口氏はかつての虫プロのスタッフであったということであった。僕が子どもの頃に、リアルタイムで観ていたテレビ漫画(当時の呼称)の、「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」などにも関わっていたらしい。
漫画作品も多数発表していたのだけれど、代表作に恵まれることがないまま、虫プロ商事の倒産に伴い、雑誌「COM」が廃刊することで、発表の場を失う。(よく誤解が生じるのであるが、虫プロダクションは作品制作を主体とする組織であり、虫プロ商事は雑誌や漫画の単行本などの商品販売を手掛ける組織で、別々の存在である。末期には、虫プロ商事がテレビ漫画の「ふしぎなメルモ」を制作するなど、混沌とした状況になっていたけれど、本来は別々の目的で設立されていた。)
ただし、坂口作品はCOMに発表された、実験的な作品ばかりではなかった。石ノ森章太郎氏の「仮面ライダー」や、池上遼一氏の日本版「スパイダーマン」(連載途中から、原作に平井和正氏が入る)、桑田次郎氏の「デスハンター」(原作は平井和正氏)と同じ誌面で、純然たる娯楽作品を連載をしている。(講談社の、「ぼくら」であったか、「ぼくらマガジン」であったか、記憶が曖昧である。) これも原作は平井和正氏の「ウルフガイ」(後に、平井氏の小説、「狼の紋章」と「狼の怨歌」として発表される部分)という作品である。坂口氏は、新しい漫画表現に対して意欲的である一方で、けして自分が斬新な表現をしているという意識に酔い痴れることのない作家だった。ある意味、淡々と原作を映像化していった。それは、無意味に派手な表現を嫌う描写でもあった。そうした作風は、原作者である平井和正氏からは、かなり酷薄な批判も受けた。当時の平井氏の作品は、人間の原罪とでも言えるような、存在そのものの悪を活写していた。そうした、ある意味露悪的な視点からは、坂口氏の表現は、甘いものに感じられたのかもしれない。(ただし、平井氏の多重人格的な「批判」に関しては、1980年前後のSFファンの間では、既に「ネタ」となっていた。共作をした相手の作家が忘れられているときには口汚く罵倒し、評価されると言葉を尽くして持ち上げるといった文章が、節操もなく描かれ続けた結果、平井氏は定見を持たない幇間作家というイメージが自然に漂うようになっていったのである。それも、かつてのファンたちの中から。そうした背景を鑑みるに、坂口氏の作品も、そうした平井氏の思いつきのままの槍玉の一環とされたとも言える。) そうした背景は、余談に過ぎないだろう。僕自身は、一時期平井和正氏の、断定的な表現の多い小説や、世界の苛酷さを容赦なく描く作家としての姿勢に熱狂していた。この世の中には、ジャック・ケッチャム(代表作「隣の家の少女」)の小説が存在することによって救われる誰かも存在する。そうした部類の人間であった僕は十代の頃に、ある意味平井作品によって救われていたことは確かである。
閑話休題(それはそれとして)。
おそらく、1970年代の半ばから、坂口氏の活躍の場は激減する。まだ坂口作品を求める、作品の受け手は顕在化していなかった。しかし、数年間の時を経た1970年代の終わり、「魚の少年」が再掲載された時点では、その内容を受け入れる読者が増えていた。(作品にとって、それを受容する方々の存在というものは、とても大切なものである。)
坂口氏の作品の中で、短編作品として発表されたもの、短編連作として構成されたもの、そして、骨格のしっかりとした長編作品として描き尽くされたものがあると、僕は主観的に思っている。
短編作品として、先述の「魚の少年」や「絆」、短編連作として「12色物語」や「午后の風」。長編作品としては、明確な代表作である「石の花」と「あっかんべぇ一休」がある。また掲載誌の休刊により未完に終わった「紀元ギルシア」などがある。(「紀元ギルシア」は、未完成ながら、坂口氏の生前に双葉社より単行本化されている。)
坂口氏の作品は、世俗に惑わされることなく、世界を透徹した視点で見つめていた。しかし、そうした部分に触れる前に、一つだけ触れておきたいことがある。動画作家としての坂口氏の業績である。
「魚の少年」をきっかけとして再び脚光を浴び始めた時期の坂口氏の仕事の一つには、手塚治虫氏のアニメ作品への参加がある。1978年に放送開始されてから数年間、日本テレビの「24時間テレビ」には新規作成の一時間半のアニメーションの枠があった。午前10時半からの放映であったと思う。そこで四年間、手塚プロダクションの作品が放映されていた。それらに坂口氏は携わっている。詳細なことは知らないが、坂口氏がアニメーションに関わった、最後の仕事ではなかったろうか。
再評価されていった頃の坂口氏の漫画としての短編作品に、「絆」というのがあった。(十数年前に蔵書を大幅に処分してしまい、題名の表記が漢字であったか、平仮名であったか確認できないのだけれど。) 身の周りのものが全て「風化していく」という現象が、全世界のあらゆる場所で起こり始める。当然、インフラや貨幣制度を含めた物資によって支えられていた社会は、崩壊していく。JGバラードの小説を思わせるような物語の中で、一組の男女が描かれる。(先述の「魚の少年」も、少しバラードの世界を思わせる要素がある。)
人間の記憶や意識さえもが風化していく世界の中で、二人はお互いの絆を保ち続けようとして、毎日の生活を送っていく。しかし、やがて世界が風化によって生み出された砂ばかりに覆われていったとき、二人は偶然目にした一匹の鼠をエサとして口にしようと奪い合い、殺し合いを始める。その描き方には、思い入れのようなものは皆無である。淡々と、「自分の意思とは無関係にこうなってしまった状況」が描き出されていく。悲惨さよりはむしろ、抗いがたい力によって変質してしまう人間の弱さが描き出される。
長編作品の代表作の一編である「石の花」は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツの侵攻を受けたユーゴスラアビアを描いた物語である。幼なじみの、少年と少女が侵略という唐突な暴力によって、別々の環境に追い込まれる。少年は、パルチザンに加わり、少女は収容所へと送られる。しかし、悲惨さを感じさせる状況は描かれない。むしろ、苛酷な状況の中を、どのように生きのびていく生命力があるかということが描き出されていく。
僕は、苛酷な状況を描くということは、その中での「希望」を描くことでもあると信じている。「石の花」という作品が、坂口氏の卓越した描写によって苛酷さを描くだけの作品であれば、僕は受け入れられなかったであろう。
この作品には、耐えがたい現実の中で個々人がどのように生きていくかという指針を、描き手が必死に模索している姿が刻印されていたのである。
僕には、絶望の中での希望の姿を徹底した凛々しさで描き続けた坂口尚氏は、とても眩しい存在に思えていた。
2020年に、「石の花」は日本で雑誌掲載時と同じB5版サイズで復刊される。その第三巻の帯文にアニメーターの安彦良和氏は次のように記している。「『石の花』の悲劇はユーゴスラビア内戦でくりかえされました。坂口さんのこの名作は未来をも見すえています。」(以上、前掲の単行本の帯文よりの引用。)
この作品の連載は1980年代の前半。ユーゴスラビア内戦は、1990年代。そう、作品の中に描かれた状況は、「石の花」の発表以降も現実世界でくり返されていったものなのである。
さらに再刊の直後、ロシアによるウクライナ侵攻が始まる。
そうした情勢を受けてか、再刊された「石の花」は、フランスで高い評価を受け、作者の死後長い年月が経過しているからであろうか、「遺産賞」と名付けられた賞を受ける。復刊された作品が予告していた加害の反復という内容が、けして過去のものではないと思われたのであろう。
あるいは、人が生きながらえるということの意味は、そうした愚かしいくり返しの可能性を紡ぎ続けるかもしれないということなのであろうか。
坂口氏の遺作となった「あっかんべぇ一休」という長編作品は、その表現方法として卓越している作品である。
一休禅師、いわゆる「一休さん」として知られる僧侶の生涯を描いた作品である。一般的には、「とんち話」の主人公として知られている方なのである。そうしたこともあり、実はこの作品がリアルタイムで連載されていた頃に僕は、読者に受け入れられやすい題材を、ちょっと剽げた題名で漫画にしたものかと思ったのである。そして、坂口氏が亡くなられてからしばらくして書店に行くと、既に文庫本の「あっかんべぇ一休」しか置かれていなかった。手に取り、購入した。そして、読み始めてから、自分の思っていたのとは異なる作品であることを理解した。とんち話の要素も、わずかには描かれていた。しかし、禅寺での修行の中で、男色を強いられるエピソードなど、苛酷な部分もあった。そのとき既に三十代半ばを過ぎていた僕には、視力が衰えてきていて、文庫本の小さな画面では読み進めるのが辛かった。
あるいは、無理に読み進めて「読んだつもり」にならなくて良かったと思える作品である。「あっかんべぇ一休」は、最近になって「石の花」と同様にB5版で再刊されている。2020年に「石の花」が再刊されたときにも感じたのだけれど、漫画表現というのは受け手の目に入る大きさというのも大切な要素なのではなかろうか。どちらの作品も、絵が縮小されてしまえば、受ける印象は大きく変わったしまう作品である。
「あっかんべぇ一休」というこの作品。「作者の意図を存分に伝えるためには、どのようにしたら良いのか」ということを、考え抜いて発表された作品ではないのだろうか。物語の第一話の概要は、以下のようなものである。
高貴な方の側室の子として生を受けた後の一休禅師は、幼い頃に社会的な制約によって母親から引き裂かれ、出家を強いられる。父親の地位を継ぐことが可能な立場から排除させるためのものであり、母子の意思は顧みられない。その物語の描き方として、様々な配慮がなされている。
例えば、母と子が不本意に分かたれる物語を、不正な圧力とそれに迫害される善良な母子といった対立関係を強調した形では語らない。侍女が憤りをあらわにするシーンは描かれるものの、むしろ世間から強いられることごとくを受け入れざるを得ない(それを拒否すれば、社会制度から排除されかねない)現実の中で、淡々と生きていく家族の物語として描かれる。(当時の社会制度の中で、母子と侍女という構成は、立派な一つの家族である。) これは、現在に生きている僕にも共通する背景である。「これが社会というものなのです」という暗黙の圧力をかけてくる相手から、概ね僕は自由では在りえない。理不尽さや不条理の中で、僕は毎日を過ごしている。
この第一話のラストで、坂口氏は母親の哀しみを直接的に描かない。子がいなくなった後の苫屋で、我が子が幼い頃に手習いで書かれた文字が壁に飾られている画像によって描く。
そして、物語の中から母親は姿を消す。
というよりも、この作品の中では「再会」というシチュエーションが意図的に排除されている。
1980年頃に公開された英国のアニメーションに、「ウォーターシップダウンのウサギたち」という作品があった。理想の新天地を求めて旅をするウサギたちを主人公としている。(最近、リバイバル公開されたらしい。) 非常に優れた作品であり、この作品を巡って、当時日本のアニメーターの座談会が開催された記事を読んだ記憶がある。その中で、物語の途中で主人公のウサギたちを助けた鳥が、最終的な逼迫したシークエンスでも姿を現すと思ったという発言があった。不確かな記憶だけれど、鈴木伸一氏ではなかったろうか? (この鳥は、物語の中ではあくまでも旅の過程に居合わせた鳥であり、目的地近くにはいるはずはない。) けれども、「苦難の時代に出会った相手が、後に救済を与えてくれる存在として登場する」という展開が、日本では好まれるのかなと、その座談会の記録を読んだときに思った。主人公が成長していく物語、いわゆるビルディングス・ロマンに陶酔する要素は、そうしたものを尊ぶ土壌に育ってきた僕にもある。成立した価値観として、既に確立した価値観によって救われる物語が好まれる風土の中では、成長過程に出会った相手との再会は重要な意味を持つ。
しかし、坂口氏の「あっかんべぇ一休」の中では、再会の描写は極力排除される。母親との再会も描かれない。自分の立ち位置を見つけ出せない修業時代に出会った旅芸人の一座の少女に、淫らな行為を仕掛けた後で拒否される。その後の毎日の中で、再会したいという思いを抱き、伏線のようにも見えるが、実際に再び会いまみえることはない。
異なった立場にある個人が、くり返し出会うことでの物語の昂揚感は、この作品の中からは徹底的に排除されている。作品の受け手の「心を動かす」技術に関しては、坂口氏は熟知していたと思う。それは、ここまでに述べた、彼の経歴からも確かなものである。
作家にとって、作品の受け手の気持ちを左右させるような「技術」を得ることが幸福なのか。あるいは自分が、作品を描く「意図」を表現できることが幸福なのか、どちらにも優劣はない。
「あっかんべぇ一休」の中で、禅寺での修行時代から、全く異なった価値観で生きている修行僧が登場する。彼との「再会」は作中で何度か描かれる。しかし、その描写は対立を強調したものではない。むしろ、そのことで極めて印象的なものとなっている。
こうした敵対者を物語の中で配置した場合、しばしばその背景に「勝敗」という概念が生まれてくる。勝敗は、あるいは「優劣」と置き換えても良いかもしれない。
例えば、キリスト教文化圏の中での「奇跡譚」はどのようなものであろう。例えばアナトール・フランスの「聖母の軽業師」。信仰から最も遠いと思われていた(身分の低い)軽業師の、素朴な信仰心こそが尊重されるものであったという物語。しかし、そうした構図に潜んでいるのは、「誰が神により近い立場にあるのか」といった、勝敗の発想でしかない。
世間的に認知される「肩書き」を追求した、そんな別の価値観を持った彼は、対立の相手としては描かれない。単に、異なった価値観を選んだ個人として描写される。
坂口氏の至った(というよりは、それ以前から描こうとしていた)最後の境地は、「石の花」での止揚の救済ではなく、「あっかんべぇ一休」のような、対立する関係性ですらお互いに価値を認め合う世界像であったのではないかと、僕は勝手に解釈しているのである。
対立によって生じる止揚。けれども、そんな観念を黙殺して、対立そのものの無意味さを軽やかに描いていた坂口作品。全力で到達したい世界だなと、そんなふうに感じられる。
世界はまだ、希望に満ち溢れている。
その希望は、まだこの世界に生きている、僕ら次第で見えてくるものなのである。
2025年 2月 14日