「森に住んでいると、女の人が尋ねてくる。」公社流体力学
森に住んでいると、女の人が尋ねてくる。鹿を獲ったり時には熊を獲ったりしているような人生なのに、女の人が尋ねてくるなんて。
ただ、その女の人は知り合いでも何でもない。毎回、私の家を訪ねてきては何もしゃべらない。いつも同じ部屋の隅に座り、時間が過ぎて彼女は帰る。何で毎回、来るんだろうなぁなんて思っていた。
まぁ謎の女を毎回あげてしまう自分も自分ではある。しかし、森というのは自殺者が来ることは少なくない。もし、彼女を追い出して自殺とかされたら悲しい。盗まれたら困るものも特にないし。一体何が目的なのかは分からないが、最近は目を離しても特に何もしないということを理解したのでご飯を食べたり、猟銃の整備をしたりしている。
あっ、そうか。猟銃は盗まれたら困るな。まぁでも整備の時以外では鍵のかかった棚に保管しているし、その鍵は常に身に着けているので不安はない。暴力を使われたら奪われる可能性もあるが、あの細い腕で襲い掛かれたところで体格差で私とは勝負にならない。一つ私が腕を振るだけで彼女は壁まで吹っ飛んでしまうだろう。
そう考えるとむしろ私の方が危険人物だな。まぁ、対格差以外の問題はないから大丈夫だろうが。
朝から私は一歩も動けず布団にずっと包まっていた。チャイムの音が聞こえる。今日も彼女が来ている。のそりのそり布団から出る。常に彼女は一回しかチャイムを押さない。だから私がのそりのそり玄関へ向かっている最中に彼女が帰ってしまうのではないかと思っていた。毎日来るから自殺志願者という可能性は低くなってはいるが、それでも0ではない。こんな憎らしい現象のせいで自殺者を生み出してしまったら神様も恨んでしまうこともあるだろう。
何とか玄関に辿り着き扉を開けると彼女が立っていた。どう見ても苦しそうな私を観ても彼女は表情をピクリとも動かず。そこで初めてこの子は人間か?と思った。いくら何でも、今の私は健康そうには見えないだろう。ポーカーフェイスは結構だがに、してもだ。
幽霊がいるとは思わないが、今になって不気味に感じてきた。私がこんな小娘に腕力で負けるとは思わないが、得体のしれない物に対しても余裕な態度をとれる程私は想像力が足りないわけじゃない。一瞬こんなに苦しいのは彼女のせいかと浮かんだりしたが、彼女がいなくても苦しいときは苦しいので関係はないか。
彼女はまっすぐいつもの定位置に行く、ということはなく。ゆっくり布団へ戻っていく私を傍で観ながら私と同じくゆっくり部屋に入ってくる。流石に今襲われたらひとたまりもないな、そう思っていたが問題なく布団で横になれた。
布団で寝る私を彼女はいつもの位置から眺めている。とりあえず枕元に置いてあった鍵を寝間着についてあるポケットに入れた。
彼女の正体が何かを考えたことは沢山あったが、いくら何でもここまで苦しんでいる人間を前にあそこまで無表情を貫くのはどうかしているとしか思えない。っていうか帰れ。
「あのさぁ、悪いんだけど帰ってくれないかな」
沈黙している。
「見ての通り今体調が最悪に悪いから後にしてくんない」
ずっと黙ってみている。動く気配を感じない。もしかして私が死にかけているから心配しているのだろうか。そんな訳はないだろうが、まぁここまで苦しんでいたら難病か何かと思う気持ちは少しはあったりするだろうか。ないだろうけど、現状報告位はした方がよかろう。
「もし、私の最期を看取る気なら今日は無理だよ。単純に重い日ってだけだから」
重い日で伝わるか?女の子ならみんなわかるとは思うが。
「重い日、分かる?生理。朝から生理痛が酷くて起き上がれないの」
その瞬間布団から飛び上がりそうになったというか軽く飛んだような気がした。彼女は眼を大きく開けた。驚愕、その顔は明らかに彼女の感情を伝えていた。無表情以外の顔を始めてみた私はペンギンが空を飛んだ時のような気分だった。彼女にも表情筋は存在したのか。
「あなた女性だったんだ」
初めて聞いた声は冷たい氷のような美しい声をしていた。冷たい氷って、熱い氷があるのか。いや、というかまたこれか。
マタギをやっていると言うのもあるかもしれないが昔から大きな体格太い腕、そして何よりしかめっ面のこの顔。男みたいだと言われていた。髪をロングにしていた時もあったがロン毛の男にしか見えないという感想だけだった。化粧に興味がなかったのもよりその印象を加速させていた。確かに私は女らしいものに興味はない、マタギという現状も女らしくない(少なくとも現代人においては)かもしれない。
だが、一般の女性の感性は持ち合わせている。男だと間違われたら確かにそうみられる努力を怠っているのは私ではあるが、悲しくもある。そして彼女も結局私を男だと思い込んでいたわけだ。
じゃあ、彼女はずっと大柄な男の家に上がり込んでいたと思っていたのか。流石にそんなことはないだろうと思ったから勝手に私が女だから危険がないと判断しているのだろうと思っていたが。
「じゃあ、ダメですね」
「何がダメなの。というか、喋れるんだ」
「喋れます」
「色々聞きたいことはあるけどさあなたはなんなの」
「私はあなたが助けた鶴です」
「鶴」
「一族の掟としてあなたの妻になるためやってきましたが、あなたが女ならば妻にはなれません」
「でしょうね」
じゃあ何かい?これまでは通い妻っていうことか?一切喋らず目的も不明のまま毎日部屋の隅に座っていたのが鶴なりの結婚生活ということか。本当に鶴とは思っていないが。
「喋ってれば、女だと分かっていたと思うよ。というか何回か話しかけてるよね」
「あなた声低いでしょ」
「まぁ、否定はしないけどさ」
「確かに、恩はあるけど見ず知らずの男と結婚する気はなかった。でも、まぁ掟なんで行くしかない。じゃあもう喋らなくていいかなって。私美人だからいるだけで恩返しになるでしょ」
「すごい自信」
「事実でしょ」
「結婚が嫌ならなんか布あげるとかで良かったんじゃない」
「布?」
「鶴の恩返しって、羽で織物を作ってそれでお金持ちにさせて恩を返す話じゃん。要は」
「あー、ひいお婆ちゃんくらいの世代ならやってたかもね」
「やってないんだ」
「布作れる?」
「まぁ、熊とか鹿の皮を布にカウントするなら」
「で、どうすればいい?」
「私に聞くの!」
行き当たりばったり過ぎない?恩返し。
「とりあえず、今無理して喋っているけど今生理で辛いからさ。おとなしくしてくれる?」
おとなしくした後、彼女は帰った。そして次の日また来た。今も私はマタギとして生活をしているが、彼女はずっといる。結婚ではないがただいるということだそうだ。私だって結婚願望がないわけではない。いつか好きになる男性が現れたら結婚するだろう。もしかしたらマタギも辞める時が来るかもしれない。
でも、現時点では辞めるつもりはないし好きな人もいないし、彼女と一緒に暮らしている。