「現代詩が滅びるとき」 POGE
ランナウェイ淘汰(runaway sexual selection)とは、生物の性選択(sexual selection)の一形態で、ある性的特徴が、「異性に選択される」という理由だけでどんどん極端に進化し、生存に不利でも残っていく現象のことだ。
クジャクのオスは、長く美しい尾羽を持っている。
この尾は捕食されやすく、飛ぶのにも不利だ。
でも、メスがそれを「魅力的」と思うため、尾が長いオスの遺伝子が残る。
そしてどんどん尾は長く、派手になっていく。
最終的には、「魅力そのものの暴走(runaway)」が起きる。
この現象が詩の世界、とくに現代詩界隈で起きている。
どういうことか。
現代詩は誰も読まない。
「詩を詩人が読むだけ」になっている。
一般読者が消える。
それでも「詩人の中」では褒められる。
詩としての生存に不利(読者の減少)でも、内部評価が続くために生き延びる。
これはまさにクジャクの尾。
「誰のための美しさか」が問い直されることなく、内輪で回転する進化を続けてしまった。
進化心理学では、人間の性的魅力や芸術的表現も、適応というより「誇示的なシグナル」と見なすことが多い。
詩や芸術は「自分の知性・感受性・共感力」を他者にアピールするシグナル。
しかしそれが内輪評価だけで回り始めると、適応より誇張が優先される。
それが虚飾、誇示、自己陶酔の系譜となり、やがて文化の淘汰圧から逸脱してしまう。
これらは、進化論的に言えば選択圧の誤配。
外部環境(読者・社会)との接触を絶って進化を続けることは、結果的に絶滅、つまり詩の死へとつながる。
私は滅びゆくものは滅びよと思っている。
しかし、「現代詩」が死ぬことを「詩の全体」に延長してほしくない。
現代詩はつまらないし美しくもないし誰も読まない。
私は自分の感受性を疑ったことがないから、私の感じることは市井の人々が感じることと変わらないと確信している。
読まれなくなった現代詩を書き続けるのは別にいい。
誰も読まないものを書くことの意味はあるだろう。
だがそれに「詩全体」を巻き込まないでほしい。
現代詩は滅びる。
そのあとのことを考えて私は詩を書く。
詩の尾羽が長すぎて飛べなくなったとき、
詩人は、地上を歩くことの美しさをもう一度思い出すしかない。
泥にまみれても、それがほんとうの読者と出会う道だから。