「現代詩とは何かー答える」(4) 言葉はみんな花だから-詩と花と両義性 平居謙
シリーズ 短小突貫ヘンタイ式連載
「現代詩とは何かー答える」(4)
言葉はみんな花だから-詩と花と両義性
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亡くなった人には献花をする。これはどこの国でもいつの時代でもおんなじだ。献花の習慣がいつから始まったかについては詳らかにしないが、人間のやることや感覚というものはそうそう異なるものではない。古代においてもおそらく同じようなことをしていたのではないかと想像はする。
2
奥野祐子だったろうか。彼女の詩に「こんにちは花さん、あんた生殖器だったんだね!」というような詩句がある。強烈だなあ、と思ったが、その通りだ。雄蕊があって雌蕊があってなんていう原始的な性教育で古い時代の人間は育てられたが、まさに花は性の教材そのものであったわけだ。
3
亡くなった人に性の象徴を捧げるのは何だろう。もちろん直接的には性の象徴として供えるのではなく、美しさに魅せられるが故にそうするのだろう。亡くなった人がその花を見て少しでも気持ちが和らぐように、天国で安らかに眠れるように、というような気持ちが基盤にあるのだと思う。
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しかし科学と詩とがともに発展し、奥野の言うように「花は生殖器」という観念が定着した現在では、「花を捧げるということは生殖器を提示することでもある」という両義性が多くの人々の深層の中で疼く。
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考えてみれば、「献花」という話題で始めたから「死者」の話になってしまったが、花を捧げる第一と言えば、死者よりも多く「恋人」が想起されるだろう。そして恋人と性器とは深い関係がある。またいまだカンケイがない場合には花は極めて重要な意味深長な、というよりも直接的なリクエストとなる。
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なんでこんな話をするのかと言えば、詩とは何だろうということを考える時に、この「花」のような言葉が重要であるからだ。それは美しいものを書けという低俗な意味ではなく、美しいというイメージの裏側に、全く別の意味合いを持っている言葉、がそれぞれの詩を組み立てているからである。
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「花のような言葉が重要」と言ったがもう少し正確に言うならば「花という言葉が美の象徴であるのと同時に性器そのものを指すという両義性を備えているのと同様、全ての言葉には両義性があるということを考えることは重要である」という事である。
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福中都生子という詩人は「女はみんな花だから」と言った。僕はかつての師の言葉をアレンジして詩の為にこう言わねばならない。「言葉はみんな花だから」と。言葉の両義性を理解するものだけが、詩を読むことができ、詩を解読する技術のある詩人の言葉だけが新しい詩の方向を切り拓いてゆく。