「現代詩とは何かー答える」⑦ 幼稚さよ、さようなら‐社会詩とは何か 平居謙

2022年05月02日

シリーズ 短小突貫ヘンタイ式連載
「現代詩とは何かー答える」⑦ 
幼稚さよ、さようなら‐社会詩とは何か


時事問題に積極的に発言する人がいる。それは大切なことなのだろう。自分ではあまりやらないが、声を大にして言わねばならないことは多くある。現在では特に、SNSでの発言が世間を動かす機動力にもなるようだから、個々の発言の重みはより大きくなっているのかもしれない。


僕が積極的でないのは、僕が思いつくレベルのことは、もう大抵いろんな人が言ってたりするからだ。同じような意見を垂れ流すことにあまり意義が見いだせないし、一般的なことを突き抜けて言うためには、さまざまな資料の上で言わなければならないだろう。そうでなければワイドショーで時事問題をネタにダベる芸人と同じ轍を踏むことになる。


詩で時事的発言をする人は、調査をちゃんとやっているのだろうか。調査をやっている人の詩が面白いとは限らないところが、詩の面白さだ。だが少なくとも真摯さは伝わってくる。ところが僕の見る限りそういう人でさえ多いとは言えない。冬には暖かなストーブに当たりながら、夏にはクーラーの効いた部屋の中でTVやネットで流れているニュースなんかに突っ込みを入れているようなものが多い。今しがた「時事問題をネタにダベる芸人」と書いたが、まだ彼らの方が、ツマラナイことを言えば次のオファーに関わる緊張感があるだけましというものである。


詩の中で社会的な問題について発言することの是非について僕はずっと考えていた。ずっと、というのは、1週間や3カ月や5年というようなものではない。1986年か87年頃に福中生都子という人のやっていた同人誌「陽」に偶然入ってしまって、それ以来、のことである。そこは僕がそれまで作っていた所謂モダニズム系の詩とは全く違う、小野十三郎の系統を自負する社会的リアリズムの修行のような場の同人雑誌であった。


結局そこは2年ほどで失敬したが、年に4回開催される合評会には皆勤した。8回は多分行った。消費税が導入されればそれに反対する詩が現れ、テロが起こればテロに怒る詩が同人誌上に現れる。そんな会であった。


戦争から戻った人々がその体験を語り継ぐ。これにはリアリティがある。交通事故の後遺症に苦しむ人が、現在の社会について訴える。これにも真実味がある。また当事者でなくても、資料や現場を漁って問題点を探し出す熱意のある人が何か言うと地力が違ってくる。
福中さんの会も、生活者が多かったから彼らには彼らの実感があったのだろう。しかし軽々しく時事問題を「ネタ」に詩を書く人の心理とは。


僕は推測する。時事ネタを詩に書く人の中には、ある一定数、過去に社会的な発言をして褒められた体験を持つ人たちがいるのだろう。例えば小学校で、とか。社会的な発言をすれば、社会に参加しているように見える。〇〇君、小学生なのによくそんなこと知ってるね!先生は言うだろう。社会について何か言う事はエラいことだ。そういう体験がベースとなって「自分は詩の中で社会的な発言をしている。だから私は、そして私の詩はエラいんだ。」という発想が生まれる。時事ネタが書かれていなくても、社会批評性を発揮することは可能だと僕は思う。むしろそういく形で時事ネタにならないレベルの社会の問題点を、いまだ名前のつけらえていない微視レベルの危険をピンポイントで暴き出すのが詩なのだと思う。


すでに形のある時事ネタを頼りに、自分自身の正当性を主張する、小坊主。秀才の坊ちゃん、お嬢ちゃん、褒められることを欲するような幼稚さよ、さようなら。お前らの詩の中に使われた時事ネタの中で何人の人が泣いているか。時事問題をネタにつかうような人々と遠く離れて、僕はこれからも詩をつくってゆくよ。






平居謙