「現代詩とは何かー答える」5  平居謙

2022年03月02日

シリーズ 短小突貫ヘンタイ式連載
「現代詩とは何かー答える」⑤   
詩とはきゃべつを刻むことだ-社会詩とは何の謂いぞ


現代詩とは何か。馬野ミキに尋ねられて数か月経つがまだ外堀も埋め得ていないという感覚がある。外堀を埋めてゆくことで、徐々に本丸に近づいてゆくというのは、しかし定番野郎のやることだ。定番は、新聞キシャやニュースキャスターに任せておけ。そんな気がしたので、今回は一挙に本丸へと飛び込んでゆこう。えい、ヤーっ!


≪「現代詩」とは何か≫の問は必然、現代と詩とに分けて考える必要がある。と、書きながらそれは間違いであることにすぐに気付いた。「現代」と「詩」とを分けるのではなく、「現代」と「詩」との密着した関係を書くことが「現代詩」を書く事に他ならない。もっと正確に言えば、「現代」の中に「詩」がどう生きるか、を書くことである。


現代という時代に、「詩」がどのように浮遊し、立ち上がり、あるいは炸裂し、破滅消滅転生変転を繰り返すかを示すことが「現代詩」だ。少なくとも「現代詩手帖」とは関りがない。それでは「詩」とは何か。おれのことだ。お前のことだ。詩を体現しているとすればまさにそうだ。おれが詩だ。お前が詩だ。現代をお前がおれが生きればどうなるのか。その記録である。


詩とは間違っても政治に対する批判ではない。天皇制に対する意見でもない。原発に対する反論でもない。インチキな書類改竄に対する怒りでもない。広島の原爆の記憶が風化することへの感傷でもない。私服を肥やす理事長への嘲りでもない。安い賃金への絶望でもない。テロに対する反発でもない。女を騙す男への指導でもない。アメリカとの関係への提言でもない。悲しんでいる人への励ましでもない。そんなことを書いているならそんなことを書こうとしている情けない自分を励ましてやれ。そもそもそんな一行に要約されるようでは、書く意味はない。おれがお前が何処へ向かうのかを、暗がりの中で手探りをするその、決して要約しようのない絶対の感触だけが書きたいし読みたいのだ。命を懸けた実験である。


命を懸けて、なんていうやつにロクなやつはいない。≪命まで掛けた女てこれかいな≫という有名な川柳がある。松江梅里という人の作品らしい。それと同じだ。他人様から見れば、てめえもおれもロクなことをやっていないのだから、ロクな詩が書けるわけがない。ロクな詩は新聞に載せてもらい批評家から褒めてもらい、有名になって教科書に載って、やがてみんなに暗唱される羽目になる。それを望むような馬鹿には、迫力のある詩が書けるわけがない。教科書に載るほど恥ずかしいことはない。自分のパンツが教科書に干されるようなもんである。


「現代」と「詩」との関りを「現代社会において起こっている事件や問題について」「詩の中で話題にすること」とすり替えて考えている人が何と多いことか。そうしたい人を止めるわけではない。勝手に書いてくれ。許可制でもないし、許可を与える立場でもない。だがそういう人が書いた詩は、ニュースで読み上げられる内容とちっとも変わらない。そんなものあんたの詩を読まなくても新聞記事にしっかり出ているじゃない。そう思うことがたくさんある。社会性が大事だから社会詩を書いていますだって?社会詩とは何の謂いぞ。卒倒しそうな気持になる。


そういう人がたくさん居る理由はよく分かる。褒めてもらいたいんだな、要するに。「私ちゃんと社会のこと見てるでしょ!」「ちょっと他人とはズレた鋭い目をもってるんだよ、ボク」。幼稚な紳士淑女の皆さん、さようなら。未熟なぼっちゃん、お嬢さん、去ね。


詩は得体の知れない自分自身の痕跡である。もちろんワザと得体の知れないふりをしてもたかが知れてる。お里がバレる。時事ネタなんて詩に書くものではない。時事ネタや日々起こる事件の衝撃に相当するキャラクターである未曾有の自分を生きて初めて、のちのちの、お前の、オレの存在が詩人としてこの地のどこかに痕跡する。そう思って少なくともおれは詩を毎日きゃべつみたいに刻んでいる。現代詩はおれがその日に食うためのきゃべつを刻む行為そのものである。




平居謙