「現代詩とは何かー答える」2 詩とコスプレ 平居謙

2021年12月02日

シリーズ 短小突貫へンタイ式連載 「現代詩とは何かー答える」2

詩とコスプレ


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詩とコスプレはよく似ている。最近ある人が「詩の言葉を否定して書きたい」と書いているのを読んだ。基本的にはよく分かる。「いかにも詩ですね!」という雅やかな語や、戦後詩に溢れる「世界は...」みたいな言葉ばかりを使い続けていても、それは単なる「型」になってしまう。それで詩を作ったつもりになっているのは違う、と僕も思う。


しかし。にもかかわらず、僕は詩には決まった言葉があると思う。ここでいう詩の言葉というのは、単語・語彙という小さな塊を超えた、もう少し大きな意味。ごく普通にいうところの「発想」にも近い意味で言うのではあるが。またたとえば、こんなことを言う人がいる。「私の詩は、詩に興味のないひとにこそ読んでほしいと思います」。これも言わんとすることは分かるのだが、僕は自分の作品は「詩に興味のある人に読んでほしいと思います」です。


詩だ!詩を書くんだ!と思うとどこか肩に力が入る。例えばカルチャーセンターを受講し始めたばかりの、特に年配の書き手はみんなそうだ。そしてそれは可愛い。ヘンテコリンナ難しい言葉(漢語が多かったりする)がなぜか並ぶ。大仰山な比喩が語られる。そして回を重ねるごとに徐々に自分のふつうの言葉に近づいて行く。それがその人の詩の言葉だ。


それでもやっぱり詩の言葉は詩の言葉。日常の言葉とはスピード、性質、顔つき、歴史、
喜び方、滲む様子、破壊力、生々しさ、体重、ガッツ、イク声、温度、面積、とんがり
具合がみんな違っている。すべてが日常とは違っている。「詩の言葉を否定して書く」の
は自由が、詩を書くなら詩の世界に入ってゆく覚悟を決めたまへ。詩の言葉を否定してし
まったら詩ではなくなるのだから。残念ながら。


僕はイマドキのコスプレはやらないが、子供の時には(僕だけじゃなく誰だって)プロレスラー顔負けの覆面(手製)などをかぶって、或いは仮面ライダー風になり切って野原を疾駆したはずだ。野原がない今の時代には、マンションとマンションの間を駆け抜けるはずだ。その時、完全に登場人物になり切って、周りの雑草たちはかわいそうな悪者レスラーあるいはショッカーの戦闘員(ザコキャラ)になる。


詩を書くときは、詩人になり切る。古臭い着物を着たよう詩人でもいいし、奇抜な衣装の詩人でもいいし、リーマン風でも構うもんか。センセーぽくても許されるし、娼婦の姿も素敵かも。そうやって、書いてゆく途中で人は言葉のコスプレを重ねてゆき、それを脱ぎ捨てた時、つまりは書き終わってその詩を読んで初めて人は素の自分に戻るんだ。


生き方に緩急をつけるための結界に、詩はなってしかるべきだ。ここからこっちはアノ世界。そしてこっちは現実のボク。ワタシ。それが分からない人の詩は、メリハリがなくて現実そのもので、ぬらぬらして、おそらく魅力に欠けている。