「秋月祐一とけんごの短歌ワークショップ 〜はじめての短歌〜 第八回」秋月祐一
けんごさん、こんにちは。秋月祐一です。
第六回までのふりかえり、ありがとうございます。
>「読者の想像力を広げる」
>コレにとても特化しているのが短歌かな!
>とちょっぴり思いました。
そうなんです。南極とかの海面に出た氷山の一角をお見せして、
水中の氷の大きさを読者の方に想像してもらうのが、短歌の醍醐味です。
*
けんごさんが短歌を演劇に例えていらっしゃるのも、うれしく思いました。
短歌は、脚本・演出・主演、さらには大道具・小道具・音響・照明までを
ひとりでこなす演劇にとても似ていると思います。
【原作】
天気雨濡れた背中を陽にあてて虹はどこだと自転車をこぐ
【改作案】
虹はどこだと自転車をこぐ天気雨濡れた背中を陽にあてながら
この例のように、視点をどこに置くかで見えるものが変わるという意味では、
カメラ(=作者の視点)の加わった映画に近いのかな、という気もします。
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できるだけ具体的で、手ざわり感のあるもの、の例として、
けんごさんが挙げてくださった
・お寿司食べて手についたお醤油舐めた味
・交通事故で車がぶつかった音
などは、誰もがよく知っていても、
短歌を書こうとするときに、すっと出てくるものではないでしょう。
けんごさんの感覚のするどさを示すものだと思われます。
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【原作】
満月がひとりぼっちで歩いてる朝はむこうとつぶやきながら
月光が闇にもたらす静寂にこの身をゆだね朝を待つ四時
月明かり朝の光に消されてく夜を照らした君であるのに
やあみんないのちはたのしいかい?と聞く月の声色みえそうな夜
命さえ持つことのできぬ宿命をこの身に刻み夜の道行く
静けさを捨ててこの身を焼き尽くす私はいつか太陽になる
いつまでも交わることのない道を並んで歩く夜の道連れ
夜に生き命を燃やす人間と昼に生まれて燃えたかった月
けんごさんが八首書いてくださったようなものを、
短歌の世界では「連作」と言います。
けんごさんは、いきなり8首の連作を書いてくださいましたが、短歌を始めたばかりの方は、まず三首の連作を書いてみることをおすすめいたします。
参考例として、ぼくが初心の頃に書いた三首の連作を挙げておきますね。
【参考例】
地底湖に落としたカメラ ぎこちないきみの笑顔を閉ぢこめたまま
泥棒市場で買つた時計のうごかない秒針のこと、結婚のこと
大輪の花火はじける五億年後にぼくたちの化石をさがせ
(ルビ 泥棒市場=バザール)
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さて、けんごさんの連作を、一首ずつ見てゆきましょう。
>満月がひとりぼっちで歩いてる朝はむこうとつぶやきながら
「月」が主題の連作の導入として、とてもよいと思います。
月を擬人化するという技巧もさりげなく使われています。
>月光が闇にもたらす静寂にこの身をゆだね朝を待つ四時
作中主体(作者)が登場しました。
>月明かり朝の光に消されてく夜を照らした君であるのに
「月明かりは」と字余りになっても助詞を補いたいところです。
「月の明かりは」と初句七音にする手もあるかと思います。
>やあみんないのちはたのしいかい?と聞く月の声色みえそうな夜
とてもよい歌だと思います。
「月の声色みえそうな夜」も工夫を感じるフレーズですね。
>命さえ持つことのできぬ宿命をこの身に刻み夜の道行く
この歌の主体は「月」でしょうか?月の擬人化の歌の多い連作なので、
「命さえ持つことのできぬ」に違和感を感じました。
>静けさを捨ててこの身を焼き尽くす私はいつか太陽になる
この歌が連作のテーマでしょうか。
「(月が)いつかは太陽になる」という発想の大胆さに驚きました。
>いつまでも交わることのない道を並んで歩く夜の道連れ
「月明かり朝の光に消されてく夜を照らした君であるのに」という歌のあとに「夜の道連れ」とくるのが、ちょっと不自然な気がします。
>夜に生き命を燃やす人間と昼に生まれて燃えたかった月
連作のラストにふさわしい絶唱だと思います。
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これらの点をふまえて、並べ替えたのが下記になります。
【改作案】
満月がひとりぼっちで歩いてる朝はむこうとつぶやきながら
月光が闇にもたらす静寂にこの身をゆだね朝を待つ四時
いつまでも交わることのない道を並んで歩く夜の道連れ
やあみんないのちはたのしいかい?と聞く月の声色みえそうな夜
月明かりは朝の光に消されてく夜を照らした君であるのに
静けさを捨ててこの身を焼き尽くす私はいつか太陽になる
夜に生き命を燃やす人間と昼に生まれて燃えたかった月
(命さえ持つことのできぬ宿命をこの身に刻み夜の道行く、は除外)
夜にしか生きれられない月に、おのれの姿をなぞらえて、
いつかは太陽になる、昼に生まれて燃えたかった月、
という切実な思いを吐露した、重厚な連作になっていると思います。
けんごさん、いかがでしょうか?