「自分自身のだらしなさ」奥主榮
僕が好きな作家さんがいる。まだ若い方なのだけれど、創作の世界というのは単純なもので、描き手の年齢も肩書きも関係はない。僕にとって「好い」と思える作品を描く創作者が、僕にとっては価値のある作家なのである。その作家さんを見ていると感じることがある。ある種の魚が泳ぎ続けることを止めると呼吸ができなくなるように、もしも誰かから描くことを止められてしまったら、息が詰まり死んでしまいかねないのだろうな、と。
女性の作家さんである。僕はある時期から女性に接するときに、容姿に対する自分の感覚を意識的にシャットアウトするようにしている。これは僕の身勝手な理由による。自作を、そうしたフィルターを介して観られるのは厭だからである。ただ、そうした僕でも、その作家さんが一般的な意味で可愛らしいと思われるのだろうなということは理解できる。
そのことを僕は、気の毒だなと思う。というのは、その方の作品と向かい合っていると、心の中にとても厄介なことをいくつも抱えているのだろうなということが伝わってくる。そうして、自分の中の脆い部分を守るために、機雷を撒き散らす潜水艦のように可愛らしさを偽装していることも感じられる。(ただ、非常にしっかりした方なので、不埒に近寄ってくる無礼者に対しては、一刀両断にする言葉も放つので、なかなか見ていて心地よい。)
可愛らしく笑ってなどいないで、無愛想で不機嫌そうにしていても良いのにとか、僕は思ってしまう。
とか書きながら、僕自身はだらしない人間であった。若い頃、浮ついた気持ちでいた頃には、憂鬱そうな顔をしている女性には、「何かあったの?」とか、「困ったことがあるなら、話してみて」とか言うことが優しさだと勘違いしていた。でも、考えてみたら、そういう発想の根底にあるのは、「女の子にはいつもにこにこしていて欲しい」ということを要求する、とても暴力的なものだと思い知らされた。
今の僕は、好きな相手が僕の前で不機嫌そうで無愛想にしていたら、それはそれで何だか嬉しいとも思えるかもしれない。特に自分が何らかの形でのパートナーとして選んだ相手に対しては、一番楽でいられる姿を受け入れて、それで好いよって思っていることが当然だと、今の僕は思っている。
別の若い女性と話しているとき、中山ラビさんという数年前に他界されたフォーク・シンガーについて語った。僕が十代半ばの頃に、初めてライブを聴いて魅了されたこと。(レコードでの演奏とは異なり)力強く歌う「わかれ」という歌に圧倒されたことを話した。(「剥ぎ取った昨日の自分を刻み/血したたる生きものに わかれを告げる/時に流れる心臓残し/糸くくる あやとりの毎日」(中山ラビ「わかれ」より一部引用)といった文言は、当時は理解しきれていなかったが、女性であるという様々な制約からの解放を高らかに謳いあげた内容であると後に理解できたといったことを話した。) また、さらに「ひらひら」という、一見ファンタジックな歌が、女性の性欲を描いた作品であるといった話もした。この歌は、こんな歌い出しである。「ひんやりと 肌にはしる/一人寝の ひらひら/日陰のような 乾きがたまらない/小さな夕立を/くださいな 今すぐ」(中山ラビ「ひらひら」より一部引用)
一九七〇年代の時点で、そうした内容を伝えようとした歌手がいたんだと話した後で、ふっと頭をよぎった歌詞の断片について語った。
「『じっとしてなって』優しい目で言われ」で始まる歌い出しの曲があったな。そう僕は語りかけた。そして、自分自身の反省を込めて、続けた。「男って、下心があって、それを隠したいと思っているときに限って、妙に優しく振る舞えるんだよね」。
ふいに、彼女の表情が変わった。そして、「その人の歌、聞いてみます」という一言を告げた。何か思い当ることがあったのかもしれない。
最近、映画を観ていて、自分自身のだらしなさと付き合わされるシーンと出会った。
一つは、「ナミビアの砂漠」という作品の中のこんなシーンである。一緒に暮らし始めた女性に、「僕たち、お互いに高め合えるよね」みたいなことを言う男が出てくるのを見て、僕は「こういう御託を口にする男って、一方的で都合の良い恋愛を夢見ているんだよな」と思った。ふっと、昔見た古い映画を思い出した。加藤泰監督の「日本侠花伝」という作品である。この映画の中で、インテリの学生の助けを受けて足抜けをした女郎は、こんな言葉を口にする、「あなたは神聖な行為だと教えてくれた」。
ちなみに、「ナミビアの砂漠」の中では感情を昂ぶらせていく女性に対して男性が「一人にさせてくれ、冷静にならせてくれ」と主張するシーンが出てくる。
僕は、根拠のないエリート意識を抱いていた若い頃の自分を思い出して、何だか胸が痛かった。諍いが起こり、それでも相手と直接向かい合えないときの男って、「僕は本当は優れた人間で、こんなトラブル一人で解決できるんだ。でも、騒いでいるこいつのせいで、落ち着いて考えをまとめることができないんだ」みたいな、思い上がった気持ちでいることが多い。単に、他人のせいにしているだけである。
なんだか、自分がダメダメでろくでもない人間であったからこそ、見えてきているものがあるような気がする。錯覚かもしれないけれど。
なんだか、決定的にダメな男というのを描くのが流行っているのであろうか。(僕自身は、そう思わせる流れに、少し風通しの良さをおぼえていたりするのだけれど。) 「雪子a.k.a.」という映画の中では、交際相手の女性がラップをやっていることを「好きじゃない」とのたまう男性が登場する。今どき、こんな時代錯誤な頓珍漢が存在するのかと、僕なんぞは思うのであるが、生存しているのかもしれない。
ちなみに、この映画はとても優れた映画でありながら、なんだかラップという表現手段の扱いが類型的で、その点がとても残念であった。なんだろう。本気を出せば一人前のラッパーだみたいな類型的な偏見が、観ていて厭だったのである。ラッパーも表現者である以上、映画に描かれているよりもはるかにシビアな事態に直面している。そして、感傷的に心の表現とかいう次元を乗り越えたところで、優れた表現活動を続けている。「雪子a.k.a.」は基本的に、優れた着眼点の多い映画である。主人公の女性教師が、教え子の児童が発するちょっとしたサインを見逃さず、さりげなく対応する姿が描き込まれている。だからこそ、「自分に自信が持てない」と悩む彼女に同僚が口にする、そうした悩みを持っているからこそ、いろいろな悩みを抱えた子どもに気が付けるというアドバイスに説得力が生まれてくる。また、不登校の児童の家に定期的に足を運び、開かない扉の外から語りかける姿も描かれる。あるとき、父親が彼女の前に段ボール箱いっぱいの本を見せる。それらの本を読むたびに、夫婦で希望を抱き、今度こそ上手くいくと期待を抱いたと語る。教師に対して冷淡な態度を取っていたように描かれていた父親の、深い苦悩が、そうした形で描かれる。ちなみに、劇中では母親は不在である。おそらくは、苦悩の末に母は去ったのであろうことが暗示されるが、明示はされない。そうした描写も、観客を信頼して、想像に任せている。とても素晴らしい部分の多い映画なのである。それだからこそ、題材として扱っているラップの扱いの粗さが気になった。
ラッパーだけではなく、表現をする人間は、いろいろな形での批判を受けていく。そして、その中で自分の演戯を鍛えていく。その過程では、多くの厳しい声も受け入れていくしかない。
そう。適切な批判というのは、厳しいものであると同時に、表現者としての方向を示唆するものなのである。
僕が三十代の頃、徐々に評価を受け始めていた僕の作品群に対して、「もしも小中学校の頃に言葉にできなかった気持ちを、今なら形にできるという意識だけで作品を描き続ければ、どこかで行き詰まるよ」という、そんな厳しいアドバイスを告げてくださった方に、今の僕は感謝している。
表現を行う人間は、常に厳しく優しい評価に晒される。そうした中で、どうすれば本人の真剣さを伝えることができるのかということと向かい合わせられていく。
そんな事実が、僕にはとても貴重なものであるように思えている。
二〇二五年 五月 六日