「詩とわたしー2023.2現在」香澄海
「私が詩を書くことは紙の無駄ではないか」という問いをある朗読会で詩人が口にしていて驚いた。私はそんな問いを持ったことがなかったからだ。詩人は「こんなにたくさんの詩集が日々生み出されているのに」と続けた。それで帰り道、考えてみた。そうか、あの人は外に向かっても視野広く書いているのだ。そして、私はほとんど自分に向けて書いているんだ。それが私の今の限界なんだな......。
詩を書き始めた頃、ながく孤独だと思い込んでいた。だから詩は本音を話せる唯一の仲間だった。その頃の詩はもちろん自分のためにだけ書いていた、いわば日記詩だ。何故、詩の形式にしたのかはわからない。それまで詩集をちゃんと読んだこともないし、日記の端に言葉を書いていたら始まってしまったというのが近いと思う。
人が読むことを想定していない詩ーー自分は何者なのか、生きているといえるのか、ほんとの私はどこにいるのか、そんなことばかりぐるぐる考えてた頃、詩を書くと何だか産み落とした感じがして落ち着いた。詩を書いているあいだは浮遊していられるし、書き終わると不思議な爽快感があった。それは精神安定剤より明らかな効き目があって、それが私の詩を書くときのクセを形作っていったのだと思う。
それから、躁の期間に突入し詩から離れ、周りの人を振りまわし傷つけた後、それが少しだけおさまってきて詩を書き投稿を始めた。いくつか掲載されたり、ワークショップやオープンマイクなどで詩友もでき、やっと居場所を見つけられたような気持ちになった。けど、色々あって私は深いうつ期に入り、再び詩を日記の片隅に追いやってしまった。Twitterやfacebookを始めてから、詩のかけらみたいなものを時々Upしてはいたけれど、一昨年の秋まで15年くらい詩に真剣に向き合うこともなく、詩友に会うこともほとんどなかった。
また詩を書くきっかけになったのは、亡くなった寺西幹仁さんの詩集だった。寺西さんの詩を改めて読んでしみじみ「あぁ、いいなぁ」とふるえた。寺西さんから「もう書かないの?」と言われてる気がして、真っさらなノートに詩を書いている時間と空間を強烈に欲する自分がいるのがわかった。
しかし私の詩は拙い。まだおずおずと自分の殻に安住してばかりいる。だから、もっと突き抜けて展開したい、もっと詩を味わえるようになりたいと思うようになり、今は様々な詩集や詩誌や詩論を読んだり、朗読を聴きに行ったりしている。よちよち歩きながら、まだ表現できていないことを言葉にしてみたい。もっと深く繊細にものごとを観察したい。何故、すぐにわーってなってしまうのか、考え始めると不安がとまらなくなるのか、その答えが欲しいわけじゃなく、深く繊細にものごとを見られるようになったら、この「変に踊らされてる感じ」がおさまるような気がする。
詩がなかったら、私はうつを生き延びられなかっただろうし、これから先も詩があるんだと思うことで少し生きられるかなという気になる。たとえまた、うつ期が来ても。だから、詩は私にとって生きてゆく伴奏者なのだ。
ただ、欲を言えば、「踊らされてる」を踊り切るに変えたい。躁を恐れ抑えることから解放されて、ありきたりじゃない自由な世界に跳ねたい。中途半端な繊細さにふりまわされるのではなく、よりささやかなところまで見つめられるよう変わっていきたい。きっと詩ならそれに応えてくれると思う。