「詩人と出逢うこと」椿美砂子
私の家には生まれた時から詩集や詩誌が溢れていた。実家の父が詩人だったからだ。私にはお友達がいなかった。人を求めているのに人との交流が不器用だからだ。インターネットがこれだけ普及してLINEやメールが日常に普及しているのに自分からそれらを送る事が出来ないのだ。
実家の父の書斎には詩集が壁一面に並び、夏休みや休日は父が不在の日にはそこで過ごした。父の書斎には学友だったという寺山修司からの葉書が額に入って飾ってある。恵まれた環境だった。眠る前に枕元に置いた詩集を眺め、今日はこれを読んだの?と父が聞かれ、うん、ここが面白くて美しいと答えると父は嬉しそうだった。物心ついた時から詩は日常にあった。
嫁いでから新潟日報という地方新聞に詩の投稿欄を見つけて、なんとなく投稿してみたら3週間後に入選をして掲載された。そこから月に一度の投稿が始まった。投稿すると掲載されるのでいい気になって投稿人生が始まった。でも何故か現代詩手帖や詩と思想などへの投稿は思いつかなかった。
ある日、新潟日報社から連絡が来て新潟県内の詩人田中武様が取材をしたいとの事で新津の作家さんの自宅でお逢いすることになった。そこから私の詩人人生が変わった。新潟県詩人会に入会し、詩学で憧れだった伊与部恭子様とも出逢う事になる、
詩集を刊行したらと周りに勧められても子育て中の私には余裕もなくなんとなく手の届かない夢のようだった。詩も好きだったけれど子育ては私にとって満ち足りたものだったからだ。
それでも実家の父や親しい詩人達とのアドバイスで第一詩集を刊行できた。あの印刷された自分の名前の書かれた詩集を手にした瞬間は一生忘れないと思う。手にした瞬間美しいと思った。私は大病をしたり理不尽なもの達にいつも日常を打ちのめされたけれど、自分の詩集を手にした瞬間吹っ飛んだのだ。夢は叶ったら現実だった。一体誰が読んでくれるのだろうと途方に暮れた。でも新潟のジュンク堂書店に並んでいる自分の詩集を観た時、いつまでもこの場所にいて欲しいこの詩集をとも願った。
詩人との出逢いに戻そう。月に一回、今は田中武様の自宅で詩の勉強会をする。私は本当に詩の歴史などに無知で日本の有名な詩人達を知らない。一体実家の父の書斎で何を読んでいたのか、そこには昭和からの詩集がきちんと整頓されている。多分カラフルな詩集ばかり読んでいたのだろう。父の書斎の書籍には私の赤ペンがいっぱい、ここ好きとか。
そんな私を田中武様と父だけは優しく見守ってくれ好きなように書いたらいいと言ってくれた。私の詩は魂をベタベタ言葉に貼り付ける、多分苦しくて悲しくてどうしようもない気持ちが私を詩に向かわせるのだと思う。
詩は魂の訴えだと思う。実家の父と私の師である田中武様がいたから詩を諦めずに来れたのだと思う。何度も現実を書け、夢とかじゃなくて生活を書いた方がいいと言われ続けたけれど、書きたい事が地上から少し浮いた場所から観た両手を真っ直ぐに上げたそんな詩だった。これからも私は私を救う為に詩を書き続けます。
次回は私の亡くなった詩人のお友達との話をここに残したいです。