「連載:これも愛やろ、知らんけど 18 PINHOLE」河野宏子
二十歳の頃、住んでいた家に屋根裏部屋があった。天井に格納されている梯子を下ろして上がると、座ってなら作業できる程度の、本来はおそらく物置として利用する想定で作られたスペースがあった。その頃はまだ詩を書くには至っておらず、行きたかった美大にもいけなかったわたしは写真を撮っていて、そこを暗室として使っていた。夏はとにかく暑くて、いつも薬剤の匂いがこもっていた。
当時流行していた一眼レフも持っていたけれど、わたしが使っていたのは手作りのカメラだった。ピンホールカメラといって、密閉できる箱の内側を黒く塗り、レンズの代わりに針穴を取り付けただけのカメラ。中には印画紙を入れる。三脚などに固定して一定時間露光すると、針穴から入った光が逆さまに像を結ぶ。それを現像し、ネガとして使って、写真作品のようなものを作っていた。
うまいとか下手とか比べる相手もいなかったし、カメラを作って現像するところまで全部自分でできるのが面白かったので当時は熱中していた。行きたくなかった文学部は詩作と短歌の授業以外は退屈で、教員免許をとる気にもなれず、軽音楽部では歌を歌いギターを弾いていたけどあんまり上達しなかった。週5でCD屋と郵便局でバイトをして毎月稼いだ20万円弱のお金はほとんど、映画やライブを観るのと洋服に消えていた。自分が何になりたいのか、さっぱりわからなかった。美大に行くのを諦めたのは、親に反対されたのもあったけれど、技術を磨いたところで、描きたいものが何にもなかったからだった。
ただ、何かものを作る人間にはなりたかった。なのでギターを弾いたり写真を撮ったりしていたのだけど、どれも同じだった。大学の就職課であれこれ言われても、自分の足元から繋がっている未来の話だとは思えず、60名ほどいたクラスで卒業するまでわたしだけ就職先が決まらなかった。恥ずかしいどころか就職氷河期のどん底だったので、無駄になる努力をしなかった自分が正しいと信じていた。とはいえ少し違う働き方をしようとCD屋と郵便局を辞め、たまたまアルバイトで入ったアパレル卸の会社で契約社員になった。
そこから紆余曲折あって、26歳から詩を書き朗読をし始めた。ああ、これだったら、自分だけのものができるかもしれない、勘違いでもそう信じさせてもらえた。詩を書くとき、自分の胸にピンホールがあるような気がする。きりりと小さな、孤独の点が、わたしのなかに像を結ぶ。孤独はわたしの宝物だ。断崖絶壁を登って植物を採るプラントハンターや深海に潜るダイバーみたいに、わたしだけが捕まえられる光景がある。中年の今は詩を書くパートタイマーでしかないけど、ピンホールがちゃんとある。ひとりきりで向き合って焼き付けた詩を、あなたに見せたい。