「T-theaterのこと 第一部 T-theater結成まで(2)」
二、おしゃれテレビのこと
話は少し逸れる。
1980年代の半ば、二人の男がパフォーマンス・ユニットを立ち上げた。一人はインスタレーション作家を目指していて、もう一人は作曲家を目指していた。インスタレーション作家志望の彼は、当時全盛期であったディスコのオブジェ作成などをすることはあったが、基本的に二人には何の後ろ盾もない。
二人は、あれこれの手だてで舞台を実現した。最初のときは、美術関係の友人と共同で会場を借り、次には彼らだけの単独の舞台を。前者は当然、それぞれの参加者の友人が訪れ、それなりの観客数であった。二度目は、単独の舞台ということで客席にはまばらな人影しかなかった。しかし、終演後の二人に一人の男が名刺を差し出す。
当時、YMO散開の直後の坂本龍一には、コネで送られるデモ・テープが殺到していたらしい。それにうんざりしていた坂本は、自分の事務所のメンバーに、自分たちの足で興味深い表現活動をしている無名の人間を探して欲しいと命じていたそうである。その一人に二人は、才能を見い出された。二人のユニットは、おしゃれテレビといい、インスタレーションを含めた美術関係を担当していたのが荻原義衛、音楽を担当したのが野見祐二。やがてmidiからアルバムを一枚出している。また、野見はこの後、映画音楽なども手がけるようになる。おそらく一般的な知名度が最も高いのはジブリ・アニメの「耳をすませば」の担当としてである。
と、これだけ書けば、単なる幸運なサクセス・ストーリーの一つである。
ただ、彼らが機会を掴むことができたのは、単なる偶然ではない。野見は僕の中学時代の同級生でもあり、彼らが認められる前後を僕は少しだけ知っている。(野見の方は、僕のペンネームである奥主は知らないので、僕の名前を告げても分からないと思う。)
まず、二人の勉強量は半端なものではなかった。荻原は、当時出ていたパフォーマンス表現に関する数多くの本などを読み漁っていた。また、野見の音楽研究は独特なものであった。メディアがレコードからCDに変わる時代、友人たちが買い換えのために廃棄する音源を譲り受け、あらゆるジャンルの音楽を聴いていったのである。
ただ、こうした表現活動に関する自分なりの勉強は、当然の前提であり特筆するほどのことでもない。むしろ、彼らがユニットを立ち上げる際に、自分たちの表現手段をどのようなものにしようと考えていたのか。この点にこそ、彼らの独自性があった。
例えば、舞台上での演技の訓練を受けてない人間が、舞台に上がって何かを表現しようとしても、それは付け焼刃のものに過ぎない。だとしたら、舞台での表現の仕方を演技という固定観念から解放してはどうかといった発想なのである。着ぐるみのように中に入って動かすことができるオブジェが舞台上を動く。予め作り込まれたDTMによる音源が流れる。
舞台表現の修練の期間の差を補う表現手段の可能性を、彼らは考えていたのである。
新しいメディア(媒体)の確立と言い換えても良い。
通常、人は自分が何かを表現するとき、どのような手段を通してそれを実現するかを考える。既成のレールの上で、自分が何をできるかを模索するのである。新人賞への応募や、合戦形式の舞台への登板。そうした表現手段は、全て誰かが設けた競争という軌道上でのマウント合戦に過ぎない。
けれど、おしゃれテレビの二人は、最初からそうした道すじは無視して、自分たちなりのルールを築こうとした。それは周囲の意見に左右されるようなものではなく、確固としたものであった。
表現活動においては、おそらくはそうした確固としたもの、頑固なものが大切なのだと、僕は考えている。それはさておき。
詩の朗読を、これまでにないような形態(媒体)で行うことは出来ないだろうか。大村が参加した詩の研究会の話を聞いたとき、ちらっとそんなことを思った。そのときには、どんな形態かという具体的なイメージはなかったのであるが。
2023年 3月 18日