「5月28日 三国詩ポエトリースラム頂上決戦観戦記」ヤリタミサコ
○スラムという形式
勝負を競わない一般的な朗読会と、競うスラムではどこが違うか?というと、一番は「勝ちにいく」意識だろう。初めから負けたいという人がスラムに挑むはずはない。例えば対戦相手のパフォーマンス直後に自分の作品を差し替えるなど、相手次第で自分の手を変えてみたり、出演順が早い人たちの採点を見てその傾向を探ることもあるはずだ。もちろんスラムではない複数詩人の朗読会でも、前の出演者とは違うトーンになるように読む作品の順番を変えるとか、自分の空気を印象づけるために激しいトーンで始めるとか、なんらかのカタチでは意識しているものだが。
あるいは作品を入れ替えない詩人もいるだろうが、それにしても、ライバルのパフォーマンスを気にしないではスラムはできない(意図的に聞かないという気持ちの持っていき方も含めて)。つまり、詩のテキストの力プラスパフォーマンス力は、自分一人だけの仕事ではなく、ライバルとその場の流れによって、いつも以上に評価が高くなるかもしれないし、以下になるかもしれない。
勝負だから、勝ち負けという結果の後味は、悪いこともある。敗因が自覚できればよいが、どうして負けたのかわからないときは割り切れないかもしれない。さらりと流せずに悶々としたりする。私自身も審査員を何度か担当して、自分の受け止め方と違う結果が出たときには、どうして??と怒りに近い気持ちを持ったこともある。なので、勝ち負けの結果がすぐに示されることは、メリットとデメリットの両方がある。が、それでもスラム形式での開催が拡大しているのは、メリットの方が大きいからだ。聞き手が聞く一方ではなく感想を表現できること、出演者は自分のパフォーマンスの反応がすぐにわかること、そして何よりも一番のメリットは、出演者も聞き手も緊張感が高まるということだ。勝負というのは、人間の本能に備わったテンションを高める仕組みなのだろう。
○三国詩というスラムについて
石渡紀美、大島健夫、中内こもるの3詩人であれば、"スラムではない"朗読会であっても聞き手は集まったであろう。が、スラム形式であることで、予測不可能なスリルが加わったことは確かだ。私自身はスラム形式のデメリットも感じたことがあるので、いいような悪いような、という分裂した思いを持ちつつ聞きに行った。
が、結果はスラムであることのメリットの方が多かった。まずは、それぞれジャンルの違う審査員があらかじめ公表されていて、彼らの採点と講評がすばらしかったこと。これは会場から無作為に選出された審査員では不可能なことなので、他のスラムと違う条件であるが。同時に、前半終了後の審査員の講評を聞いてすぐさまに自分の戦略を変えた詩人の力量(あるいは変えなかった詩人の力量も)にも脱帽だ。最終的には聞き手全員の意見も加わったカタチでの審査結果に、私は満足した。これほど不満の発生しないスラムは初体験だ。
一般的なスラムでは、会場全体、あるいは偶然に選出された審査員によるジャッジである。つまり審査員はあらかじめ決定していない。が、今回は事前に選定され発表されていた。出演詩人3人の企画か、他の企画者の案なのかはわからないが、ここが重要だった。先入観なしに、出演者3人の詩のテキストとパフォーマンスを公平に見られる審査員であることが要点だから。その結果、審査員3人ともが自分の持ち味を100%発揮しての講評なので、聞き手はその内容に納得できた。
○出演者について
スラマー3人にはそれぞれ演劇的、詩的、ストーリー的、な魅力がある。中内こもるは演劇的傾向が強く、顔の表情や抑えた身体表現も繰り出してくる言語上の驚きのタイミングもうまい。「経験のないほどの・・・」というニュースで聞くセリフに続くのは、台風や大雨の予報であろうと推測される。が、わずかな間を置いて、次には「力強い握手であった」と予想を裏切る逆転の肯定的表現が続く。聞き手は先入観を覆されてビックリして、その次はどうなる、その次はどう展開する、と興味津々となる。ただ、それがやりすぎになるかならないかの境目があり、私は以前、ちょっと作り込み過ぎかなあ、と感じたことがあった。そこがリーディングがナマモノ(=ライブ)であるゆえんだ。テキストが受けを狙いすぎているように感じてしまうと、夢中になって聞く気持ちが少し冷める。が、この日は、以前から何度も朗読している作品でも、あらかじめ作り上げられたテキストであっても、今この時生きて感じている詩であるという現在性が強く出ていた。特にラストの5ラウンド目の「男が泣いていいのは・・・」では、それまでの聞き手をケムに巻いていた大胆なフィクションがほとんどなく、中内自身の人間くささを感じさせる作品だった。自作の世界を、外界にむけて風穴を開けている心意気に、賞賛の拍手である。
石渡紀美は、もう20年以上ステージで朗読している「母さんオンファイアー」は、早々と2ラウンド目だった。この作品で、石渡の基本的人生観が聞き手に響いたと思われる。フェミニズムという概念以前の、もっと原始的な自分と社会の関係性への違和感と怒りと嘆きだ。それは誰にでも起こりうるが、一般的な人々は薄々感じていても気付かないフリをして日常の平穏を守っている。その部分を意識して言語化し、自分の詩として表現し続けている石渡の勇気は、聞き手にぐっときたはずだ。そして、自分の子どもとの会話「死ぬなよ」「死なねえよ」は、親子の絆というよりは、独特な人間関係を構成している親子なのだと思わせるイキオイだった。社会的役割での親子なのではなく、世界に一人だけの親と世界に一人だけの子、という固有の関係性の肯定だ。また石渡の声自体は、女声としては低く太い声だ。決められた社会規範に黙って従うことなく、自分の感受性で考えるという石渡の人生観プラス強い声が、短い詩にも力を与えている。ただ、制限時間3分以内よりも短い作品が多く、テキストとしては完結していても、石渡の声そのものを聞く楽しみが少なかったので、その点では不満が残った。
大島健夫は、出演順を決定するにあたって1番をチョイスした。大島らしい真っ向勝負の姿勢。1番目というのはマイクの調整に不確定要素があるのだが、やはり声量のある大島の声を伝えきれず、少々残念だったが。大島の作品は、詩的ファンタジーでヤマありタニあり冒険譚みたいな、平易な言葉で奇想天外に展開する物語である。詩の種類では、奇想(コンシート)に属する。「今日で世界が滅びると・・・」という仮定でノンセンスな独白が連続する作品は、スピードがあり繰り返しの面白さがあり、日本語話芸の「講釈師見てきたような嘘を言い」という川柳のようだ。そして大島のように、声と語りの技術と本人が書くテキストとのバランスが良い詩人はまれだと思う。だいたいのスラマーは、どちらかがよくて他方をカバーすることが多い。ただ、大島のように朗読回数が多い人にときどき感じるのだが、リーディングにおいて作者自身が慣れてしまっていると、そのときその場で発生するスリル(綱渡り感みたいな)が減じるのである。今回の大島の1ラウンドの「うなぎ」の作品を聞いて私はそう思った。どこでどう読んでも受けるテッパン作品、という安心感は、朗読者本人の緊張感を減らすのではないか。ここはむずかしい。
結果は中内こもるの優勝となったが、実力伯仲の3人なので、誰が優勝してもおかしくない。強いて言うと、この日の聞き手と審査員との見えない場の上で、いつも以上の力を発揮できたのが中内、いつもどおりだったのが石渡、いつも以下だったのが大島、という僅差だと思われる。リーディングはナマモノなので、どんなに準備しても当日の"場"という魔力が関与することは阻止できない。その魔力が味方してくれるかどうか、予測できないのもスラムの魅力の一つである。