「T-theaterのこと 第二部 活動前期(5)」奥主榮

2023年07月30日

五 第三回公演 何を実現したかったか

 前回、宣伝広告に関する話題から、表現活動に関する様々な話に軸がずれていってしまったのですが、今回は話題を、T-theaterの第三回公演「いったきり温泉」へと戻します。

 この公演で僕がやりたかったのは、「偉そうでない舞台」というものでした。

 人間は、一度自分を偉そうに見せようとすると、どこまでも欲望が働いていく。肩書きを求めたり、実績を求めたり。自分の企画に誘った相手の残した成果さえ、自分のものに取り込みたいのだと言わんばかりに、「僕はこれだけ凄いんです」病にかかってしまう。自分だって、そんな醜悪な状態になってしまうかもしれない。自分も含めて、そんなアホらしいトラップに陥った人間は、厭ほど見てきた。

 「行ったきり温泉」の舞台の冒頭は、初めから決めてあった。
 緞帳の隙間から、大村浩一がちょろちょろと客席を覗く。(これは、舞台人としてはNGな行為であり、あくまでも演出の一環である。) 開演ブザーが鳴った直後、緞帳が上がり、舞台に出来てた大村が、いきなりア・カペラで歌い出す。
 「はぁ~/行ったきり温泉 楽しいな/老いも若きも 悪しきも良きも/チョイと混浴 花が咲く/ハァ よぃよい」。 歌い終えた後で、「踊るのを忘れていたので、もう一度やります」と叫び、不器用な振り付けで、また同じ歌をくり返す。
 その場にいる方々が対応に困るような世界をつくりたかった。表現活動というのは、常に自分が何か場違いなことをしているという意識を伴っているものではなかろうか。だとしたら、何か不審で掴まえ所のない舞台にしたかった。
 僕の中で、最も傍若無人な意識が頭をもたげていた時期なのかもしれない。

 ちなみに、この回の宣伝キャッチは「踊るのを忘れていたので、もう一度やります」にした。

 この公演では、松岡宮のことを鮮明に覚えている。インターネット以前のパソコン通信時代から、関わりが生まれたと思えている。さまざまな企画に参加していた。僕は、自分の好きな表現者の作品を、「こんなのもありますよ」と、当たり前のものとして参加者に紹介していた。山野一の「四丁目の夕陽」とか、根本敬の「タケオの世界」とかを、参加者に見せていたのである。後者は、日本の遠洋漁業の船が、南の海での核実験で被爆するという背景の物語である。甲板の上で、一人の乗組員がせんずりをしている。射精の瞬間に放射線を浴びた結果、一つの精子が赤ん坊として飛び出してしまうというエピソードから始まる。精子の形状をしているために差別されて育つ「タケオ」の成長を描いていく。「四丁目」「タケオ」のどちらも、かなりタブー・ブレッキングと受け取られる作品である。ただ、僕は露悪的な際物作品に留まらない魅力を、どちらからも感じていた。
 「タケオ、可愛い」というストレートな反応を返してくれたのが松岡宮と、今の妻であった。とても好い感想を聞けたなと思った。「タケオ」を囲む残酷な風景というのは、ある人たちにとっては「見えないもの」とされてきたのに、確固として向き合わされた現実そのものだったのである。
 最近僕は、「ねこぢる LOVE」みたいな思いを抱いている若い方々と出会った。初期作品が好きな方が多かった。どなたも繊細で、心優しい方々であり、作品に描かれている世界の惨たらしさをその強い感受性故に実感されていた。
 松岡宮は、T-theater参加以前には比較的「マジメ」に作品に取り組んできていたようであった。いろいろな講座に参加して、創作のセオリーのようなものを身に付けようとしていたらしい。僕が貸した本を読んだ結果、「要するに何をやってもいいんだ」という結論に達したということで、いきなり「うんこの詩」という作品を提出してきた。
 曖昧な記憶なのだけれど、松岡さんは工藤直子さんの「のはらうた」を、動物の糞一つ落ちていない野原として毛嫌いしていたと思う。「うんこの詩」は、日常生活が汚猥に満たされたものであることを活写した、素晴らしい作品であった。僕は、公演のラストにこの作品を置いた。しかも、朗読者が途中から次々に舞台に上がり、口々に「うんこの詩」を朗読するという大団円にした。
 「対応に困ること」が冒頭にあり、「日常は当たり前のように汚猥に満ちている」で締めくくられる。これで、参加者が個々に提出した作品群を乗せるプレートとしての舞台設定は完成した。

 どんな作品でも受け入れられる土台が形成できたことが、とても嬉しかった。
 というか、主催者の僕が一番身勝手なことをしているのである。他の参加者の方々に、あれこれ言うことは出来ない。

 この公演、実際の舞台途中で、とんでもない事故が発生した。このときは、僕は完全に舞台監督という立場に徹底し、ステージには上がらなかった。客席の一隅から、進行を確認するという立場に徹した。
 演出の中に、いきなり舞台上に置かれた携帯電話が鳴りだしてしまう、というのがあった。(携帯が普及していた当時、いきなり呼び出し音が響くのは、客席の方々が慌てて荷物を確かめはじめるぐらいのインパクトがあった。) この呼び出し音がキューになって、場面転換へとつながるのである。客席から、僕が頃合いをみて電話をかけることになっていた。ところが、三回ある公演のうちで、一度だけ電波が通じない状態になってしまったのである。しかし、立場上、会場から飛び出してコールするわけにはいかない。咄嗟に叫んでいた。
「すみません、キューを送るのを忘れていたので、そのまま次に進んで下さい。」
客席から、笑いが上がった。これも演出と思われたのか、いつまでも同じことをくり返している舞台に呆れていたのか、どちらか分からない。ただ、まぁ、変てこな公演だったのでそういうものかと思っていただけなのか。

 このときの公演会場は、中野のPLAN-B。僕が中学の頃に好きだった同級生の女性が進学した都立高校の近くにあり、さらには四十年前に関わった「おしゃれテレビ」が他の参加者と一緒にパフォーマンス公演を行った場所でもあった。ちなみに、この当時PLAN-Bでは「山谷 やられたらやり返せ」という映画が、定期的に上映されていた。山谷での、反社勢力による労働者の搾取の実態を描いた作品で、監督は謀殺されている。(確か、意思を引き継いだ二代目の監督も兇刃にかかったと記憶している。) 妻は、この映画に感銘を受けたようであった。僕は、多忙で見に行けなかった。殺された監督のことを歌ったのが、先日他界された頭脳警察のPANTA。「綺羅に紛れて」というタイトルで、この題名はやはり鬼籍に入られている作家で評論家の橋本治が提供している。本筋とは話題が逸れるが、亡くなられた方々のことは、誰かが書き残しておかないと忘れ去られていくだけである。

 会場近くのお弁当屋さんで買ってきた弁当を、他の参加者と一緒に近所の高校の敷地内で食べていたら、職員の方にやんわりと注意されてしまった。そういう、まだ緩やかだった社会も、僕が描こうとした舞台には似合っているかもしれない。ちなみに、この高校は中学時代の僕が憧れていた、成績優秀な女の子が進学したエリート校であった。学校の成績が悪く、高校進学にも失敗した僕にとっては、何か胸がうずくような憧れを感じていた場所であったのだった。

 公演後、とても真面目な批評として、「意図不明な演出が続き、舞台表現としては失敗したものとしか思えない」という指摘があった。僕は、自分の演出意図が的確な指摘を導き出せたことが、とても嬉しかった。
2023年 7月 15日 第二部完結





奥主榮