「T-theaterのこと 第四部 その後の展開(2)」奥主榮

2024年01月06日

 二、低迷期を超えて

 僕は、余り他の詩人との関わりがない。根本的に仲間意識というものが嫌いなのである。
 物心がつく頃に近所の水田が宅地開発され、新しく流入してきた住民の子どもたちから仲間はずれにされて育った僕は、誰かとつるむことが苦手なのである。(60年ばかり前は、「子どもの喧嘩に親が顔を出すな」という時代であり、「いじめ」という概念自体がなかった。だからこそ、振るわれる暴力は徹底的であった。新興住宅地の中の公園に遊びに行っただけで、「入ってきた罰だ」と取り囲まれ、すべり台の上まで登らされ、突き落とされたりもした。) T-theaterにしたところで、あくまでも自立した個人の集団で「仲間」ではないと思っていた。実際、大村からは「あくまでも作家としての付き合いだ」と明言されていた。
 今年(原稿執筆時の2023年)、関東大震災百年ということで、ようやく「朝鮮人虐殺」が脚光を浴びている。僕は、仲間意識という価値観の突き進む極限は、こうした暴挙であると思っている。同質性の集団に埋没することで、自主的な価値判断の基準を失っていくのである。仲間意識による足枷によって判断を誤ることが、とても怖かった。僕は、臆病者なのである。
 だから、朗読の世界、ポエトリー・リーディングの世界では、むしろ嫌われ者であったかもしれない。最近、僕は自分を「ガラパゴス詩人」と呼んでいる。「そんなこと、自分で名乗るものでもないでしょ」と妻は言う。確かに思い上がった呼称かもしれない。しかし、何らかの派閥に参加することに抵抗があった自分にふさわしい、また他人からの評価ということとは無縁でいた自分の立ち位置にふさわしい気がする。誰かから評価を受けるということもまた、自分の目を曇らせる。褒められたときには素直にお礼を伝えて、けれど目を伏せてそれ以上の賛辞はそっと回避すれば良いのである。
 若い頃、おしゃれTVの企画に付き合ったときに、参加者の一人が口にした言葉を思い出す。「創作っていうのは一人でやるものなんだ。時間をかけて創り上げ、それを発表してから、ようやく反応が返ってくる。この一人でいる時間っていうのは、自分が世間から隔絶された異常者そのものじゃないかと感じるよ。」正確な文言は記憶していない。しかし、伝えたかった内容は強烈に記憶に残っている。創作行為は孤独なもので、誰に受け入れられるかもしれない作品を描いている自分は、異常者かもしれない。まだ、ダーガーも認知されていなかった時代に、こんな一言は僕の救いにもなった。そんなこともあり、僕は交流よりは孤立を求めていた。
 ただ、そうした僕に、面白い事件が起こったことがあった。僕の大切な人が、精神障害の症状によって隔離入院したことがある。そのとき、T-theaterの参加メンバーの中の数名が、「もしも奥主がパートナー奪還の行動を起こしたら、協力しよう」と判断していたと、後から聞かされた。前科付いてもという覚悟って、いや僕はやんちゃ自慢の人間ではないのである。
 でも、その心意気だけは嬉しかったが。切羽詰まったときに、心を寄せて下さる覚悟の方々がおられるという、いや現実には辞退せざるを得ない状況を生み出してくださる方々がおられることが嬉しかった。
 僕は多分、矛盾だらけで、そのくせ古くさい人間なのだろうと思う。仲間意識を避けているくせに、心を寄せて下さる方々には泣き出すぐらい感謝する。

 詩関連や、ポエトリー・リーディングの場以外の、いろいろな場所を訪れてみた。例えば秩父の武甲書店のオープン・マイク。例えば葛原りょうさんが新春に開催していたオープン・マイク。
 今は活動を停止している、昭島の無頼庵では、一年間オープンマイクの主宰をさせていただいた。西荻窪のあなたの公差点では、それまでに全く「詩の朗読」などに触れたことのない方々と出会うことができた。
 あなたの交差点の「murmur & shout!」というイベントでは、例えば自分の気持ちを代弁してくれているようなゲームソフトをスクリーンに写しだしながら、そこでの会話を手話表現する方と出会うことができた。それは、声の出せない彼にとってはとても切実なもので、心を打たれた。
 僕の朗読の後で、彼が掠れた声を振り絞りながら、時間をかけて感想を伝えてくれたことが、今でも忘れられない。文章にすればとても短い感想を、彼にとって必要な時間を費やして伝えてくれたそのときは、僕にとってかけがえのないものであった。
 荒木田慧さんに会えたのも、ここであった。詩を描き始めたばかりですと口にしながら朗読を始めた彼女は、居合わせた人々を魅了した。漂泊者という言葉がふさわしい詩人だなと思った。このときが、荒木田さんの「詩の朗読」のデビューであったと記憶している。その後の輝かしい活躍には、目を見張るものがあった。
 いろいろな場所を彷徨っている中で、こうした幸運な機会もあった。
 職場のある八王子のライブ・ハウスPAPA BEATのオープン・マイクでは、見知らぬミュージシャンに混じって詩の朗読をした。詩やポエトリー・リーディングの関係者のいない場所での朗読は、緊張したが客席からの反応をいただけたときにとても充実感があった。
 いろいろな、切実に表現をされている方々がおられるということを発見していった。

 誰かのイベントには余り誘われることのなかった僕だった。けれど、機会があれば根気よく誘ってくれた方が一人だけおられた。TASKEさんである。TASKEさんのイベントで、いろいろな方々に出会えたことも、僕に数多くのものをもたらした。僕がTASKEさんと親しいことに驚く人も多い。(僕は、TASKEさんの為に作品提供をしたことがある。) 僕も彼も、人生のスタートに近い時点で厭な経験をしていて、そうした意味で僕はTASKEさんを身近に感じているのである。

 僕個人の朗読会の客数が再び増えたのは、2010年代に入ってから行った「白くてやわらないもの.をつくる工場」という朗読会のときである。
 ゲストに、T-theaterからの付き合いである松岡宮さんと、イラストレーターのtokinさんをお願いした。いくらガラパゴス詩人の僕でも、自分の朗読会に多くの方に足を運んでいただけるのは嬉しい。このとき、僕は「人気作家」の集客力というのを実感した。ただ、この公演で僕は、失態をやらかす。人間の希望と絶望を綾なす織物のように描く表現スタイルの中で、聴いていることに耐えられない方もおられるようなダークな作品を朗読してしまったのだ。
 基本的な考え方として僕は、徹底的に絶望的な世界を描くことは、逆に希望につながると思っている。しかし、このときに朗読した「すだれちゃん」という作品は、余りにも救いのない世界の中で、追い込まれ続ける人間を描いていた。
 黒澤明監督の映画「椿三十郎」だったかの中に、「抜き身の刀のような人間」といった台詞があったという記憶がある。ただ描きたいことを剥き出しにするだけでは、かえって伝わらなくなることもある。僕にとって、自分の表現方法について考え直す、良い契機であった。僕の第一詩集「日本はいま戦争をしている」と、第二詩集「海へ、と。」の間には、密接な連関がある。しかし、第三詩集「白くてやわらかいものを.つくる工場」と、本名関明夫名義である「みらいのおとなたちへ」との間には、一貫性はあるものの微妙な断絶がある。その理由は、こうした事態にも原因がある。(詩集の「白くてやわらかいもの.をつくる工場」は、同タイトルの舞台は反映していない。「すだれちゃん」も収録されていない。)

 これ以降も、再び観客数は激減した。僕は、ときにはゲストに頼り、ときには一人で空っぽに近い客席を前に朗読を続けた。ただ、ゲストに頼るときも、相手は厳選した。意見は異なっているかもしれないが、信頼できる相手。そうした方にしかお願いしなかった。同意ではなく、僕が立てたテーマに、きちんと自分の意見を寄せて下さるような作家。妥協してしまえば、僕の企画ではなくなると思った。馬野ミキさんは、そうした一人であった。あるとき、僕の大学の先輩が朗読会にいらしてくださり、馬野さんと僕の表現を「動と静」と評したことがある。対称的な表現手段でありながら、同じ問題意識を抱いていると感じて下さったらしい。

 四半世紀ばかり昔から、二十年前、十年前と、詩の朗読をされている方々は、それぞれ口にしていた。「ポエトリー・リーディングの会場に行くと、いつも同じメンツばっかり。新しい観客が来ないと、限られたパイをシェアするだけじゃない。今までにない観客を開拓しないと。」
 実際、観客=別の舞台の演じ手という図式が出来上がっていた。誰かの朗読会に客として訪れるのは、別な朗読会では舞台に立っている。そのこと自体が悪いとは言わない。ただ、普段は詩とは無縁な方が純粋に観客として訪れるという場所を実現したいと、僕はいつしか考えるようになっていた。

 最近の僕の朗読会は、十数名の観客を維持している。客層は、全く詩とは無関係な方や、絵画や動画制作など詩以外の方法で表現活動を行われている方、偶然僕の作品に触れて詩に興味を抱いていただけた方と、多岐に渡っていて、多様であり、年齢層も十代から六十代と幅広い。言葉を変えれば、他に大きな詩のイベントが行われても集客に影響が出ない。
 こうした方々は、結局僕があちこちを歩き回り、そこで出会う一人ひとりと対等に会話することで信頼関係が生まれ、その結果足を運んでくださったのだと思う。でも、そうした相手との会話は実はとても怖い。
 例えば誰かの絵を見て、感想を伝えるとする。その感想は、誰のための感想なのであろうか。けして、感想を口にする人のためのものではないはずだ。むしろ、作品の創り手である作者のための言葉でなければならない。(作品を手放しで賞賛しろという意味ではない。) 作家を思い、どのように表現活動を続けていったら良いのかという点に寄り添えなければ、伝える意味はない。
 最近、ギャラリー・ストーカーという言葉を知った。若い女性作家の展示を訪れては、作品の感想にかこつけて、結局ナンパ目当ての男(年配者が多いらしい)とのことである。大学構内の展示などで、一緒に展示を行っている男子学生がナンパに困っている女子学生に助け船を出そうとすると、いきなり男子学生に圧倒的な薀蓄を垂れ流し「こんなことも知らんで絵を描いているのか」と叱り出す。
 良い評価を感想として口にすることは、作者の歓心を得ようとすることにもつながる。そうした行為は、作者を喜ばせはするが、作者のためにはならない。
 僕は、他人の作品、特にまだ若い作家の手がけたものに接するときに、出来るだけ注意深く相対するようにしている。そこから見つけ出したものを、高みからの言葉としてではなく語りかけるようにしている。そうしたときには、何よりも次の作品に取り組むときに、何か参考になることが言えたらと思っている。そうした意識を抱いていないと、一歩間違えれば僕だってギャラリー・ストーカーのような存在になってしまう。いちばん嬉しいのは、僕の感想が、作者自身が意識していなかった個々の作品の背景にあるものを、作者に可視化できた瞬間である。それまでは漠然と感じていたものを意識できるということは、次の作品からさらに深化した創作活動を行えるということだからだ。
 そんなふうに人と関わる中で、徐々にいろいろな界隈から足を運んでくださる方々が増えてきた。
2023年 10月 3日





奥主榮