【レポート】現場へ#1 アールブリュットの周辺

2022年03月19日

詩人であり、生き物等の著書もある大島健夫君のSNSを見ていて以前から少し気になっていた。
大島くんが詩部門の監修をおこなっているという。

それから「抒情詩の惑星」だって小さいけれどメディアなんだから取材したりしたっていいんじゃないかという気持がわいて
少しいい紙で名刺を刷った。
この【レポート】現場へ は、私、馬野ミキが どこか行ったことのないところに行って、まだ会ったことのない人に会って名刺を配り
何か体験して持ち帰ってきて何か書くという新しい企画で、月に一本くらいこなせたらなと思っています。よろしくお願いします。


というわけで2022年3月17日、我々取材班は(俺一人だけど)千葉県は稲毛へ行ってきました

令和3年度 千葉県障害者芸術文化活動支援事業 うみのもり企画「うみのもりの玉手箱」
会場は千葉市民ギャラリーいなげ、6日間の開催されるようです。

GoogleMapのナビに頼ってこんなところを歩いていく

自分は障害者が作ったら何でも素晴らしいとは思いません
それは健常者と同じだと思います
障害者のアートでも好きなもの、自分にはあわないもの作品あると思います
それも健常者と同じだと思います

けれど社会に当たり前に適応できない状態だから見えるものというのはあると思います
ちなみにみんながあの人をいじめているから私もそうする、みんながそうだから私も というのは「適応力」の持つ まずさの一面でもあると思います。

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これはその2日前の3月15日に自分が書いた文章だ
あながち間違いではないと思うが思慮、配慮が足りないなと、当日思った

もともとこの場所は、明治のワイン王とパンフレットに書かれている神谷伝兵衛さんの別荘だったようです。


千葉アール・ブリュットセンター「うみのもり」のセンター長である こまちだたまお さんにご挨拶をさせて頂く
無事に1枚目の名刺交換を果たす わーい

さて、ここで「アール・ブリュット」という言葉についてだが
千葉アール・ブリュットセンター「うみのもり」さんのホームページより引用させていただくと

「既存の美術教育の手あかが付いていない芸術作品」 
「加工されていない芸術」「伝統や流行などに左右されず、作者自身の内側から湧き上がる衝動のままに表現した芸術」など、さまざまな言葉で定義されている。 

とある。
同じような系統の言葉に「アウトサイダーアート」とか「障害者アート」、「パラ・アート」というようなものがあると思うけれど
微妙なニュアンスの相違とか、
定義しカテゴライズすることによる弊害みたいなところも同時についてまわりますよね
本来は別に健常者のアートと障害者のアートを分別したい為に、こういった言葉、カテゴリが作られたわけではないでしょうから。
ですがとりあえず名前をつけないと会話しようがないので、広がる誤解もあるけれど名前をつけるしかありませんよね

自分がそれらに惹かれるのは単純に
「もののみかた」や「物事の構築」の仕方が自分にとっては斬新だから 新鮮だから
えーwそんな手法あんのかいw みたいな驚き 

たまおさんによると、ニューヨークではもう少し進化して「セルフトートアート」という概念があるそうです
いまgoogleで検索してみましたがちょっと的確な説明文が出てきませんね・・
訳すと「独学の芸術か」。確かもっと広い意味で、自分ん家の庭を自分で美しく整えるとか、教科書の隅に自分の為に描くパラパラ漫画とか、そういうところも含まれたかもしれません。。





ただ描くー

過集中状態で、「ただ」絵を描く一人の障害者Aがいたとします(別に障害者じゃなくてもいいが、つまり生活に異常をきたすくらい集中してしまうという事)
これはもう「描く」行為自体が既に目的と同一化しており、
禅でいう「いま」「ここ」「すべて」ってのと似てるかも知れません
例えばコンテストで上位に入賞したい!、他者や権威による評価を得たい!という発想を持ちすぎるが故に(行為と目的が分裂している状態)
見えにくくなっている世界の部分はあるかも知れません
そして誰もが同じ方向を向きすぎている時、「場」のバランス感覚が危うくなる時、どんなことが起きるでしょう?

かつてヘンリー・ダーガーって方がおられました
画像検索すると不思議な世界観の絵画が山ほどでてくると思います
これらは彼が生きている間には他者に発表されず、死後見つかった膨大な作品群であり
アウトサイダーアートの巨匠とも言われています

僕だったら、いいものが出来たと思ったら(いいものじゃなくてもw)
他者に見せたいですね 誉めてほしい、すごいのできたね!って言ってほしいと思います。

でも彼は彼にとってもっと重要な法則を?彼のなかに持っていたのかも知れません。


いまざっくり調べてみると、「抒情詩の惑星」には今まで約70人の方に原稿を頂いたりしていますが、障害のある人(国から、身体・知的・精神の障害があると認定されている人)は僕の知りうる限り、全寄稿者、執筆者の1割強くらいです。これが多いのか少ないのかは僕には分かりません。





今回の「うみのもりの玉手箱」では
・詩作品による展示
・身体表現の映像作品
・大漁旗の展示
の3種類の展示がありました。
何かに参加できなくても、何かには参加できるような工夫かな と思いました。

詩作品のいくつかは代筆によるものもあると、たまおさんに教えて頂く
直筆の方も数名おられました
作品の撮影は駄目だそうです。
なるほどSNSなどに誰かが悪意なく掲載したとしても、誹謗中傷などを受ける可能性もあります
そうなった場合、もう2度と作品を発表しないかも知れません
或いは家の外に出ないかもしれません
(応募作品は「うみのもり」Facebookに掲載されています 一番下にURLあります)
彼らや彼らのご家族に向かって、他人の評価なんて気にするな、と自分は言えないでしょう
いいものは何でも広めて拡散したらいいじゃんと当たり前に思っている自分は浅はかだなあと 
そんな自分の傲慢さと対峙しながら詩の展示を眺めます
改めて、

「発表等の機会の創出」

というワードを頭の隅に置いて。



それぞれの詩には、上記画像のように大島くんのコメント、監修が添えられていました。

腕を組んでうなる。。

自分が監修の立場だったらどうだろうか?
2日前に書いたようなことは言えないのではないか?
だが俺には俺の立場もあるからそれはそれでいいのかも知れない
だけれど俺には一体どんな立場があるのだというのだろう?
酔っ払って女を追いかけてい自分勝手に生きる人間の立場。。。


それから、
1つの掛け値なしの素晴らしい詩の作品に出会う
次に来る一行の展開がここまでまったく読めないのは本当に珍しい
そして俺が想像するよりも常に美しいメロディーが奏でられ続けられる
だが書き手はわざと奇天烈を装って書いているのではないことは分かるし
一見ばらばらの出鱈目のようにみえるけれど、その背景には全体を通して1つのある統合性を持っている

芸術の作品だー
こういうものがポンとある
表通りにダイヤモンドが落ちているけれど、誰も見向きもしないというような

だけれど彼(彼女かも)を、例えばアート界みたいなところに発表することが、彼(彼女かも)の幸福かどうかは俺には分からない。
まあ会ったことないから当たり前か・・・
ふと荘子の「混沌」を思い出す。

また「病気」「障害」という診断を受けずにボーダーラインで苦しんでおられる方もいる
カツカツのギリギリで生きている健常者の方だっておられる
発達障害の診断を受ける子供たちがたくさん増えているが、何も急に子供たちがおかしくなったわけではないだろう










海まで歩いた
靴を脱ぎ、砂浜に寝転んだ
遠くで短いスカートの女子高生二人組がカラスに追いかけられてきゃーきゃー言ってて
少し寝た。











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こまちだたまお さんには、とても丁寧に歓迎していただきました
また大島健夫くんには、陰ひなたに支えて頂き今回の原稿を完成させることができました。

ありがとうございます。