「きみは悪くないよきみは悪くない殺きみは悪くない」しせいそうせし

2022年11月11日

『健やかに生まれて十代で自分を構成するなにかのどこかが壊れて時間が過ぎ、その個所を修復しようと自分と向き合ってしまったが為に飛び降りや首吊りという終わりになってしまう人がいて、私は自分と向き合うという危険な行為を避けて爆弾を点火させずに生をやり過ごそうとしている卑怯者のひとりだ。

自分に纏わる死を嫌い他所で死ねという大勢に囲まれ、自分もそれであるという自覚もあまり無いまま社会性と生まれ持った倫理に八つ裂きにされながら、なおどうにかの不時着を人任せにした。

自己批判に自惚れた後、驚くほど滑らかに外への攻撃に発展した自分の心の動きに気付いたか。

私は人を殺している。

殺した人間の返り血のシャツを毎日曜洗濯しまるでそれが無かったかのように死人と遊びに出かける。

意識しないと認識できない殺人者の私と私に殺された死体がコンビニとか飯屋で笑ったり一緒に音楽を聴いている。

夏の田んぼを風が動かす様やでかい犬に触れる時の情緒、くすぐる心の繊細さ、機微を失くしていない。
心の中、指先や体温にそれは溢れているのに自殺者を死んでから励ます。

自分というものの割合がその抜群に汚いバランスを以って汚されたと言う。汚されたのではない、最初からだ。

あらゆる知識や常識を持って私はお前に間違っていると言った。
その言葉が自分の心を端っこから壊死させていく。私は自分が踏んだ虫に噛み殺される。

使ったはさみを元の場所に戻すとか、風が頬を抜け笑うとか、小学生の挨拶とか、
小さく自分に留まらないものの一つひとつが自分を作り、それより小さい自分が無かったことにする。

ただ道を歩いていただけで、ただ帰り道エレベーターですれ違ったそいつは明日自殺する。

お前はやめなかったし、私は止めなかった。』