アルベルトの話 【アリの話 05 サイドストーリー】 大塚ヒロユキ
アルベルトの父はシベリアンハスキー、母はチャウチャウである。よって顔はハスキー犬で、胴体はチャウチャウである。
アルベルトは親友であるルネの部屋で帰りを待つ間、テーブルの上に置いてある『アリの話』にすっかり読み入っていた。
かたくなで勇敢なアリのことを応援しはじめていた。出来ることなら一緒に吊橋を渡り、アリを守ってあげたいとさえ思っていた。もちろん、無理なことも分かっていた。吊橋は壊れかけているし、アルベルトの身体は重すぎるのだ。
『アリの話 05』で奇跡が起こり、川の中から突如登場したアルベルトは、アリの乗った花びらを鼻に乗せ、急流から救い出した。
でもその話には続きがあった。
アルベルトはテーブルに置かれた本に目を戻し、文章の中に広がるアリのいる峡谷へと再び旅立っていった。
◆
アリの乗った花びらを鼻先に乗せ、アルベルトは岸に向かって泳ぎつづけでいた。
四本の足で水を蹴るが、身体が重い上に川の流れが速くてなかなか前に進まない。アルベルトは鼻を揺らさないように口を閉じ、横波をかわす。少しずつ下流へと流されていく。
「すごいよ、アルベルト!」とアリは言った。「地面がぜんぶ水になったみたいだ」
「アァ、スゴイナァ」とアルベルトは腹話術で応える。
ぬめるように光りながら空を映し、足元を流れていく大量の水を見てアリは興奮しているようだった。陽射しを反射してきらきらと波打つ水面越しに、川原に咲いている白い花がアリの目に映った。
「アルベルト、全速前進!」
幼いアリは岸辺のひな菊を指さして上機嫌だった。
川底に足がとどきそうな辺りで、大きな横波がアリとアルベルトに襲いかかった。川底は斜面になっていて、細かな砂利が崩れて足場が定まらない。アルベルトは鼻を高く突き上げて、水しぶきをかわした。その反動で身体がわずかに沈んだ。アルベルトの視界からほんの一瞬、空が消えた。
アルベルトはすぐに水面に顔を出した。だが鼻の上に乗った花びらは、もうそこにはなかった。
「どこだ、どこにいる!」アルベルトの野太い声が川原に響く。驚いた鱒か跳ねる。
水面を流れていく小枝や木の葉の上を見ても、アリの姿はなかった。
川底に足が着くと、アルベルトは水しぶきを撒き散らし、慌てて岸に駆けあがった。すぐに下流に向かって走りだした。
「どこにいるんだ、エイリアース!」
アルベルトは遠吠えを上げる。
水音以外、何も聞こえない。この先には大きな滝がある。霧のように飛沫が舞う滝の脇を抜け、アルベルトは藪の中を駆け降りた。滝が流れ落ちる淵に着くと視線を下げ、水面に浮かぶ白い花びらを探した。
淵から流れてくる沈みかかった木の葉をぼんやりと眺め、アルベルトは背中を丸めて座り込んでしまう。滝壷に呑み込まれたひな菊の花びらは、二度と浮かび上がってくることはなかった。森の奥から笑い声にも似た奇妙な鳴き声が聞こえる。
ごめんよ、エイリアス、友達になれると思ったのに。
アルベルトは目を潤ませてうなだれていた。
鱒に食べられてしまったのだろうか……
涙が鼻の奥をくすぐり、アルベルトはくしゃみをした。大きな音が川原に反響し、足元に鼻水が飛び散った。
目の前に転がっている小石の上で何かが動いた。卵からかえったばかりの山椒魚のようにゲル状の液体の中で黒い塊がもがいていた。
粘り気のある水滴から顔を出し、空を仰ぐようにしてアリは言った。
「おーい、アルベルト! 僕はここだよ」
アルベルトはそこまで読んだところで、本から顔を上げ、鼻をすすりながら窓の方に目を移した。窓の外はとても静かだった。穏やかな午後の陽射しが窓辺にある鉢植の花を咲かせていた。
ルネの部屋のソファーはとても座り心地が良く、身体に馴染んでいた。アルベルトは『アリの話』に目を戻して、次のページをめくった。
了
【註釈】混血犬のアルベルトはフランス/モンマルトルを舞台にした未発表小説「俺のフォンデューに手をだすな!」の主人公でもあります。
ルネという捻くれた若者と犬たちのちょっと変わったコメディー作品です。
いつかお披露目できることを願って!
著者より