流動しながら思考する――popi/jectiveによるサウンドポエトリー「10/1000(点と線)」ヤリタミサコ

2025年01月16日

 Crossing Lines というインターナショナル・ポイエーシス・ウェブサイトで紹介されているサウンドポエトリーについて、レビューします。このサイトは、英語と日本語、視覚詩(ヴィジュアルポエトリー)や音声詩(サウンドポエトリー)、写真やアート作品など、詩のいろいろなスタイルが実験されています。そしてサウンドポエトリーは文学と音楽を橋渡しするもので、言語の意味や構文よりは音そのものを楽しみます。目や耳に直接訴えかける感覚を大事にする視覚詩と音声詩は、言葉の意味を越境する仕掛けです。
 さて2024年11月10日公開のpopi/jectiveによるサウンドポエトリー「10/1000(点と線)」は、主として耳で聞く作品ですが、目で見る画像と縦書きの日本語文字テキストもあります。ですが、テキストは音声化されていないので、無音の、日本語で描かれた背景という位置づけかもしれません。10,100,1000という数字がちらほら見え、エアコンの効いた環境、外国からの輸入ジュース、輸入革製品、オンライン注文と配達、といった現代の表面的な豊かさを、遠景に置いているようです。
 音としては、「テン」「セン」という単語が聞こえます。人々の生活は「点」だけど、それがつながっていくその延長にウクライナもガザも存在しているということです。あるいは連続する「線」を意志的に切断すれば、自分は点として孤立して浮遊できるとも考えられます。「テンセン」と続ければ、切り取り線にもなります。「テン」は英語では10で「セン」は日本語で1000という意味を考えると、数の違いと、点と線という2次元空間を示す記号という不思議な重なりです。また、テン=天、セン=戦、など、日本語は同音異義語が多いのでいくつも考えられます。
 この作品のあらすじを追ってみます。満ち足りた朝食風景から始まって、ニュースから見聞きする戦争が平穏な日常のすぐ隣にあり、少し想像すればすぐさま自分の生活に侵入してくるということが、音風景(サウンドスケープ)の中で描かれています。胸が痛むような戦争報道。血の色が見えてくる風景のその奥には、子どもが童謡を歌って遊んでいた安全で平和な場所も存在しているわけです。悪者が誰なのかと他者を責めるのではなく、大衆の中に埋もれた無責任な観衆でなく、想像力を持って痛みを感じる人間として、人道的な考えを持ち続けることが必要だと感じます。
 表示されているけれどサウンド化されていない詩の行では、こう書かれています。


(識らなければ
 選ぶその手を
 止めることができない)

 1000.
 検索エンジンで調べファストなバーガーを齧りオン
 ラインで翌日届くプライムな本を注文することを完
 全に断ち切ることができないでいる

(識っているのに
 選ぶその手を
 止めることができない)


 識ることと行為することの間には、距離があります。でも識らないままでは、あるいは識ろうとしないことは自分の人間性を捨てることです。だから世界各地の戦争や侵略、貧富の格差、人種問題などを識りつつ、自分の生活の隣りにそれを感じ、もどかしさやあきらめや薄い絶望を感じながらも、矛盾した気持で日々を過ごすわけです。人間は1つのイデオロギーに縛られるものではないから、識ることと手が求めるモノの間で揺れ動くのでしょう。
 金属的な効果音や、バロックオルガンの音、爆撃音が風景を立体的に感じさせます。音の遠近感や左右の移動も外界の大きさを感じさせていて、ノイズの活かし方も凝っています。音で心理的な風景を作り上げている方法に感嘆します。
 そして「細心のバランス」という単語に注目します。人間の日常は微妙なバランスの上に成立しているので、不安定になると成立しなくなります。私たち人間は、安穏と危機と生と死との、危ういバランスの上に存在していることの自覚をときどき見失います。また、ときどき思い出して不安に駆られます。というように、朝食のトーストとコーヒーを食しながら、ニュースに思いを馳せ、自分の子ども時代を思い出し、身近に起こった辛い歴史を考え、そして電車に乗って出勤して仕事をするのでしょう。危機感と問題意識と平常心を持って。

(作品は、以下のサイトに掲載されている  https://crossinglines.xyz/area/tokyo/ten11/





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