詩とことば(4) 奥主 榮
詩とことば(4)
第一章 顰蹙をかうようであるが(3)
第一話 暴力を描いた作家(後篇之1)
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詩が好きであった。
小学校に通っていた頃に、小学校の音楽の教科書で触れた「冬景色」という歌の、歌詞の響きがとても好きであった。
さぎりきゆる みなとえの
ふねにしろし あさのしも
ただみずとりの こえはして
いまださめず きしのゆめ
(作者不詳)
原文は漢字表記も混じっていたかもしれない。歌詞の意味を、音楽教科書の注釈で拾った。「さぎり」は早朝に出る霧、「みなとえ」は入江の港。
冬の夜明け、漁村の霧が徐々に消えていくとともに、辺りに光が満ちてくる。薄明の光の中、木造の漁船を覆う霜が照らし出される。朝の訪れとともに水鳥たちも鳴き声を出し始め、羽ばたきだす。岸辺の家の人々はまだ目覚めず、夢を見続けている。
そんな情景を思い浮かべた。
この歌は、一番が早朝の漁村を描き、二番が小春日の昼の農村風景、三番では冬の嵐に見舞われた里が描かれる。端正な表現の中に、時間の流れと天候の変化を聞いている僕に感じさせた。
形式的な内容上の詩の分類に、抒情詩、叙景詩、叙事詩という分け方があるが、叙景詩というのはとても少ない。この歌の歌詞は、叙景詩の非常に卓抜した作品であると思う。ただ、情景描写を重ねながら、受け手の中に文字通りの「冬景色」を想起させるのである。
物凄い作品だと、僕は思っている。
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小学校の頃には、そうした歌に惹かれていた。余り流行の楽曲とか聞くことはなかった。
中学に入った直後、唐突に洋楽を中心としたポピュラーミュージックを聴き漁るようになった。きっかけは、「サイモンとガーファンクル アメリカを歌う」という、NHKで放送されたテレビ番組であった。
当時、アメリカで人気があった歌手、サイモンとガーファンクルの人気を見込んで、テレビ番組が企画される。しかし、肝心のアーティスト本人たちの意向でスポンサーにとっては不本意な内容となってしまう。そんないわくつきの作品であったことを、僕は後に知る。人気歌手のヒット曲が流れる番組になるはずが、当時ベトナム戦争や公民権運動で揺れ動いていたアメリカの、疲弊しきった状況を背景に歌が流れる(もともと二人の歌には、そうした内容が歌いこまれていた)が流れるというものになったのである。
字幕として流れる歌詞に魅了された。それがきっかけとなり、いろいろな音楽を聞き始めた。
サイモンとガーファンクルは、その口当たりの良さから今でも楽曲がBGMなどに使われることがある。インストルメンタルに編曲されている場合もあるので、そのメロディーを耳にしたことがある人は多いと思う。
ただ、美しい曲の中に、意外と重い内容が込められていることも多い。「スカボローフェア/詠唱」という曲は、主旋律として流れているのは遠く離れて暮らす恋人への思いをこめたラブソングである。しかし、その主旋律と絡みあうように流れる「詠唱」という歌詞は、戦争の為に死に、丘の傍らに葬られていった若者たちを描いている。愛と死という対照的なものを、美しい織物のように歌いこんだ作品である。
ちなみに、主旋律の歌詞はイギリス民謡に由来したもので、同じ曲を素材にしているのがボブ・ディランの「北国の少女」である。この曲は、まだ若かった頃の松本隆にも影響を与えたようである。「ソバカスのある少女」という作品(ティンパンアレーのアルバムに、鈴木茂の曲として収録されている)を聞いたときの印象は、「北国の少女」をベースにしているなというものであった。
北の通りで ソバカスのある
少女を見かけたなら
声をかけてくれ
(松本隆作詞「ソバカスのある少女」より、1番歌詞を引用)
おそらく、当時自分の作風をどのようにして確立していくかという試行錯誤の中で描かれた一作だと思う。過去に誰かが描いた作品のスピリットを、どのように自分の表現の中に取り込んでいくかという作業は、作品の創り手にとって非常に大切な作業なのである。
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文字通り、手当たり次第に聞いていく中で、衝撃を受けたアルバムに出会う。重く響く鐘の音から始まるそのLPレコードからは、突然絶叫する声が響き渡る。
母さん 僕はあんたのモノだった
でも あんたは僕のもんじゃなかった
僕はあんたを求めていたのに
あんたは僕を求めちゃくれなかった
だから 僕はあんたに言わなくちゃ
グッバイって グッバイって
(ジョン・レノン「マザー」より1番歌詞を引用。訳、奥主榮)
泣いている、と、そう思った。
ジョン・レノンの名前はもちろん知っていた。なにしろキリストよりも有名な名前だったから。ポピュラーミュージックをほとんど聞かなかった僕でも耳にしたことがある流行歌手であり、こんな歌をうたっているとは思ってもいなかった。
こんな歌もあった。
家ではお前のことを憎み、学校では痛めつける
お前が利口だと憎み、バカだと潰しにかかる
あいつらのきまりに従えなければ、お前は追い込まれるだけ
貧乏人の成り上がり、なれるもんならなってみろ
貧乏人の成り上がり、なれるもんならなってみろ
(ジョン・レノン「労働階級の英雄」より、2番歌詞を引用。訳、奥主榮)
人から借りたアルバムを聞いていくにつれ、徐々にそれまで自分の中でどうしても表現できずに苦しんでいた思いがほぐれていくのを感じた。邦題で「ジョンの魂」と名づけられたこの中の収録曲の、一つとして僕は解説などできない。ただ、中学一年だった僕は、この一枚をくり返し聞いた。そして、何度も涙を流した。
冒頭の「マザー」という曲は、当時イギリスの国営放送局であったBBCで、「正気とは思えない」という理由で放送禁止になったという噂を聞いたことがある。そのこともまた、僕には印象的であった。どうしても形にならない自分の中の感情を、ようやく口にしても「正気とは思えない」と一蹴されるような経験を、僕もまた持っていた。「労働階級の英雄」で歌われる、いたぶられ続ける子どもに僕は自分を投影した。
そして、「孤独」という曲の、冒頭の2行。
みんなが自分のせいだって、そう言うけれど
僕たちがこれほど怖がっていることは知らないんだ
(ジョン・レノン「孤独」冒頭2行を引用。訳奥主榮)
理由もなく自分の中に湧き上がってくる恐怖。しかし、それを口にしても理解されず、ただ笑われることでさらに膨れ上がる恐怖。
僕にはどうしても表現できなかった、そうした気持ちを誰かが描いてくれている、というそれだけのことに僕は救われた。
後に、このアルバムを制作していた時期、ジョン・レノン自身が心療内科に通っていたという話も耳にした。確かに、このアルバムはジョン・レノンの他の作品群とは少し色合いが異なる。
僕は、ことさらにジョン・レノンを神格化したくない。「イマジン」や「ミルク&ハニー」といったLPレコードも嫌いではないのだけれど、やはり剥き出しな泣き声が鳴りひびいている「ジョンの魂」が好きなのである。
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当時は、ハード・ロックの全盛期で、クラスメート洋楽好き連中の殆どは、レッド・ツェッペリンやディープ・パープル、マウンテンといったバンドの曲を聞いていた。プログレッシブ・ロックが好きでピンク・フロイドやイエス、ムーディブルースを聞いている子もいた。ただ、歌詞の内容を気にしている子は殆どおらず、僕は異端であった。
中学生の英語力で、英米の歌の内容が聞き取れる訳もなく、徐々に日本の音楽にも耳を傾けるようになった。
当時、いわゆるフォークソングブームというのがあり、吉田拓郎、泉谷しげる、井上陽水、武田鉄矢と海援隊、南こうせつとかぐや姫、ケメといった歌手が流行っていった。
そうした曲も、邦楽の好きな同級生と一緒に聞きながら、少し馴染めないものを覚えていた。ジョン・レノンを聞いたときのような、殴りつけてくるような衝撃がなかったのである。彼らのうたう歌詞は、若干の社会風刺や攻撃性を持っていることもあったが、全般的に分かりやすかった。万人受けがした。(泉谷しげるだけは、当時から当たり障りのある言動が多かった気もするが。)
日本語の歌で、衝撃を受けたのが、友部正人の「乾杯」という作品であった。この曲は、ギターをつまびきながら歌詞を語り続ける。言葉が旋律に乗ってうたわれるのは、ほんの数行である。
未だにクリスマスのような新宿の夜
一日中誰かの小便の音でも聞かされているようなやりきれない毎日
北風は狼の尻尾を生やし
ああ、それそれって 僕の顎をえぐる
誰かが気まぐれに蝙蝠傘を開いたように
夜は突然やってきて
(友部正人「乾杯」より引用。)
皮膚に触れてくるような感覚を触発されるこの冒頭の歌いだしに魅了された。ほとんどが語りで構成された「乾杯」は、僕を詩の朗読へと目覚めさせてくれた作品かもしれない。
歌の内容は、新宿の飲み屋の描写へと転じていく。描かれるのは、連合赤軍によるあさま山荘事件が収束した日。
連合赤軍事件については、事実関係を列挙しただけのような説明はしない。むしろ、その時代に生きていた子どもの一人としての、僕の主観的な話だけをここにまとめる。
僕が子どもの頃には、多くの方々が今よりも政治に関心を抱いていた記憶がある。そこで描かれるのが類型的であるとか、言い古されているとか言われたとしても、ごく当たり前のテレビやラジオの番組とかの中で、諷刺的な表現が行われていた。
そんな時代に僕は育った。敗戦後二十年たかだか、戦争を体験した世代が大人たちであった時代である。戦争は観念ではなく、実感として僕らに語り継がれていた。
「戦争の是非」などという観念的なことではない。「戦争が何を個人の心の中に植え付けるのか」ということが、体験という背景を背負って語られていたのである。
そんな時代に、「日本の空港から飛び立つ爆撃機が、ベトナムで無差別殺戮を行っている」という主張に触れた。そうした時代の中で僕は、なんだか戦争を体験した家族を持っていた。自分たちの無自覚が、他国での惨禍を生む、という認識は小学校高学年から中学校入学へと向かう僕には、至極まっとうなものに思えた。
今では語られないことなのであるが、当時、学生運動というものは、テレビのスーパーヒーローものの主人公のように格好良かった。
しかし、そんなヒーローたちが、コケてしまった。それが、連合赤軍事件であった。この事件、あれこれとややこしく論じられているが、単にみんなで理想社会を築くことを夢見た方々が、さかしらな屁理屈で内部分裂をしたというだけの話である。
もっと詳細な分析をしたい気持ちが、個人的にはある。けれど、僕はそれをしたくない。あえて単純な二元論に分かつことで見えてくる現実もあると考えているからである。
革命を夢見た人々が行き着いた果ては、民間人を人質に山荘に立てこもるという事件に過ぎなかった。内部分裂の中で、粛清が繰り返し行われていたことが分かるのは、後になってからである。友部の歌は、立てこもり事件が機動隊の突入によって終焉した晩の新宿の風景を描き出していく。
金メダルでも取ったかのようなアナウンサー
「可哀そうに」と誰かが言い、「殺してしまえ」とまた誰か
やり場のなかったヒューマニズムが、今やっと電気屋の店先で花開く
(友部正人「乾杯」より引用。)
僕は、「正しさの醜悪さ」というものを、これほど的確に描いた表現に出会ったことはなかった。
ある意味、ネット社会の今の方が理解しやすいのかもしれない。正しさや正義という価値基準は、他の誰かに思考停止させるための暴力なのである。
だからこそ、友部が次のように歌うとき、客席からは喝采が起こる録音が残っている。
でも、僕思うんだ、奴ら
ニュース解説者みたいにやたら情にもろくなくて良かったって
どうして言えるんだ、奴らが狂暴だって
新聞は薄汚い涙を積み上げ、今や正義の立役者
(中略)
整列した機動隊員、胸に花を飾り
猥褻な讃美歌を口ずさんでいる
裁判官達は今夜も椅子に足をまたがせ
今夜も法律を避妊手術
(友部正人「乾杯」より引用。)
そして、この歌の最も卓抜した箇所への向かっていく。
誰かさんが誰かさんの鼻を切り落とす
鼻は床の上でハナしいと言って泣く
誰かさんが誰かさんの耳を切り落とす
耳はテーブルの上でミミしいと言って泣く
誰かさんが誰かさんの口を切り落とす
口は他人の靴の上でクチオしいと言って泣く
(友部正人「乾杯」より引用。)
中学時代の僕は、このフレーズの中で「メメしい」というフレーズが避けられているという指摘に興奮した。鼻も耳も口も奪われた口惜しさは、けして女々しいなどという情緒に流されてはならないものであろうと、容易に想像できた。
二〇二二年 一月九日