詩と言葉(6)奥主 榮

2022年03月03日

詩とことば(6)

第一章 顰蹙をかうようであるが(5)
 第二話 脅迫者(其の壱)

 深沢七郎という小説家がいた。代表作は「楢山節考」。木下恵介監督、今村昌平監督によって、二度映画化されている。特に後者は、カンヌ映画祭で受賞したことでも話題となった。他に、テレビドラマやラジオドラマ、舞台にもなっている。
 いわゆる姥捨て山の物語として知られている。そうして、物語の設定を聞いたとき、聞いた側は何だかこの作品について分かった気になってしまう。ただ、実はこの原典の小説も、その作家も一筋縄ではいかない存在なのである。
「脅迫者」は、深沢の書いた小説のタイトル。この一篇を読み解くだけでも、作品の送り手が考えなければならないことが夥しく引きずり出されてくる。

 代表作とされる「楢山節考」についての検証を含めて、深沢七郎について考察していきたい。

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 初めに、深沢七郎の文筆家としての特質のようなものをまとめてみたい。

 僕が中学校に入ったばかりの頃、初めて深沢の小説を読んだときの印象は、主人公と周囲との遠近感がゆらゆらと蠢いていく作品を描いている、というものであった。周囲との距離感が不確かな世界なのである。
 そうした中には、一見論理的整合性を欠いた、例えば数字に対する拘りがある。先に題名を出した「楢山節考」には特定の数字に対する執拗な描写が散見される。
 数字ということでいえば、そのものずばりの「数の年令」という作品がある。この作品の内容については、連載の先の方で触れることにする。ここでは周囲との距離感の不確かさの描写について引用し、例示していく。「数の年令」は、内容について触れる際に詳述するが、ある事情から非常に追い詰められた精神状態で執筆されている。それが、作者が普段は見せていない特質を露わにしている。

 冒頭は、以下のような描写で始まる。
 「空は曇っているが私の眼に写っている景色は燦然(さんぜん)と輝いていた。新宿から向島へ、この、乗っている自動車(くるま)は走っているのだが舗道の両側に並んでいる商店街の屋根は金色に輝いていた。向こうに見える建物の屋根も金色に光っているし、そこの、高いビルの屋上に立っている人達は金色の光を放っているのである。すれちがう自動車を運転している人も、そのうしろの席に腰を掛けている人も金色の光を放っているのである。臓物を並べたように続いている建物の、その中にいる人たちも、きっと、金色に光っているのだろう。いま、この自動車の中の私の両側に腰かけている二人の人間も金色の光を放っているのである。この自動車を運転しているのは私の実弟なのである。/(この人間は、金色に光っているはずはない。)/ と、弟のうしろ姿を眺めた。」
(「深沢七郎集(ちくま書房) 第五巻所載「数の年令」より引用。ルビは、カッコ内に収める。」以降、引用は基本的にこの「深沢七郎集」による。)
 いくつかの点で、独特な描写である。
 人と色とが重なり合って見えるというのは、共感覚を想起させる。実際に深沢がそうした感覚を持ち合わせていたのかは、僕には判断できない。ただ、鋭敏な感覚の持ち主であったことは確かであると思う。
 また、最初の一文が読点なしで書かれているのに対して、「この、」、「そこの、」、「きっと、」という箇所では短く読点が入れられている。

この小説を、さらに読み進めていくと、数字についての強迫観念とも受け取れる、次のような描写が現れる。
 「タコ部屋では麻雀をやっていて、ガチャガチャと沢山の雀が騒いでいるようである。外から金色に輝く人達の中の上役という人が入って来て家の中は十三人になった。その上役は言った。/「一ヵ年は三百六十五日だが、春夏秋冬という四つの季節があって、寒くなったり、暖かくなったりしているうちに川を流れている水も減ったり増えたりして、そのうちにいつかすくなくなってしまいます。人間の頭の中もそれと同じで、寒くなったり暖かくなったりしているうちに考えていることがいつの間にか減ってしまいます。つまり、頭の中はカラッポになることは人格が高くなることでもあります。」/と、人間の歩む正しい道を説明した。」
(前掲書、同一作品より引用。)
 ここで展開される論旨は、理解不能である。あるいは、カルト教団の教義のようにも思えてしまう。けれども、後に詳述するように深沢は極めて冷静な作家である。また、技巧も凝らす。諸事情から、作家としての仮面をかぶり損ねた「数の年令」を、もう少し読み進めてみよう。
 ここでふれた、数字についての記述は、次のように発展していく。
 「この家に来て三カ月たって、京都に行くことになって汽車に乗った。その時、私の上衣のポケットには一万円の札が十枚で十万円あった。ほかに、ズボンのポケットの中に五千円札が一枚と、もう一枚の五千円札は、さっき切符を買ったので残りは二千八百円になってカッターシャツのポケットに入っていた。合わせて十万七千八百円である。(この金の数もすぐ変わってしまうだろう。)と私は思った。きょうは気温が高く寒暖計は二十八度になったそうである。」
(前掲書、同一作品より引用。)
 こうした数字についての拘りを読んでいると、ある思い付きに対する強い拘りも感じる。一つ何かが頭に浮かぶと、そこから抜け出せなくなり、考えることがループしているのではないかという印象を受ける。

 また、深沢作品の中では、通常の小説であれば当然説明を加える描写を省略する傾向もある。そういった部分のみに注目してしまうと、強迫観念や思い込みによる文章を書く作家とも受け取られてしまう。(今、ふと思い出したのだけれど、そういえば花輪和一の漫画にもそうした傾向はある。花輪の作品世界でも、人間と他者の遠近感は微妙に揺らいでいる。)

 しかし、誰かが書いた作品を読むときの難しさというのは、書かれていることが必ずしも作者の素の姿ではないということである。ものを表現する人間というのは、非常に巧みに自分の姿を偽る。特異な感覚、数字への拘り、必要な説明の欠落は、作者の表現技術に過ぎない。
 深沢は、必要に応じて次のような描写もやってのける。

 「もうかなりの年寄りだが農家では珍しく派手な着物を着ていて顔には化粧もしているようである。」
(「深沢七郎集(ちくま書房) 第五巻所載「妖術的過去」より引用。)
 さりげない描写であるが、描かれている敗戦直後という時代背景を考えると、非常に巧みである。ここで、「農家では珍しく派手な着物」を女が着ているのは、都会から闇の農産物を買い出しに来た人々から巻き上げたからである。そうした行為をしてのける女の性格や、その背景にある生活を直截な説明抜きで活写してみせる。ただし、そのことには本文中では一言も触れていない。

 もう一つ、今回この原稿をまとめるために深沢の小説を読み返していて舌を巻いた表現があった。「絢爛の椅子」という作品である。(この作品も、連載の先の方で内容について触れていく。)ここでは、喋るという言葉が「シャべる」と表記されている。本来漢字か仮名書きが使われる場所に、一単語を途中でぶった切るようにカタカナ書きが使われることで、何か非常にざらついた印象が醸し出される。D[di:]の小説・漫画のメディアミックス的な作品「キぐるみ」を思わせる記述である。
 深沢は、その鋭敏な感覚から、非常に特異な表現を選んだ。しかし、一方で非常に巧みな技術も持っていた。同時に自分の表現方法に対して自覚的であり、無雑作な作家ではなかった。むしろ、作品全体を通しての印象は、主人公と周囲との関係を非常に不安定に描写しながら、計算された表現を多用し、読み手の印象を操作していく技術も持った作家であった。
 そうした前提の上に立って、稿を進めていこう。

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 深沢は、しばしば実在の事件に基づいたと思われる作品を描いている。そうした中の一作に、「白いボックスと青い箱」という短編作品がある。一九七〇年代の半ばに起こった、毒入りコーラ殺人事件を題材とした作品である。
 事件そのものは、電話ボックスの中に置かれていたコカコーラの瓶にシアン系の毒物が仕込まれていて、不用意に飲んでしまった複数の方々が亡くなられたというものである。当時新聞の報道で、被害者が置き去りの食品を口にしたことの不用意さを指摘するものがあったのを覚えている。結局事件は迷宮入りして、犯人は明らかになっていない。この事件の後で、深沢が発表した小説が、「白いボックスと青い箱」である。
 この小説は、主人公が住んでいるアパートの契約更新のために、大家と電話ボックスで話すシーンから始まる。その為に準備した、まとまった金を無意識のうちにポケットから取り出し、電話ボックスの中に置き忘れてしまう。気が付いて戻ったときには、札束を入れた封筒はなくなっている。賃貸の更新はできず、会社の寮に住むことになる。

 主人公は、電話ボックスの中に、毒物を入れた清涼飲料水を置く。その動機は、ものを盗む人間が悪いというものであり、自分が犯罪の加害者となったという意識は一切ない。これは、とても怖い。

 誰かが自分は被害者であるから加害者となる権利があるという特権を持っていると思いこむ。加害者の自覚を持たない犯罪。そんなふうに括ってみると、これはとても半世紀近く前に描かれた作品とは思えない。二〇二二年現在にもありえる犯罪を描いた作品ではないかと思えてくる。
 そうしたこともあり、深沢作品に対して、ここで触れておきたいと思った。

二〇二二年 二月 二八日