「わが地名論 第15回 虚構の中に真実はある②」平居謙
「わが地名論」連載にあたって
詩の中に地名を書くこと。その意味を探ること。これは僕自身の詩集に関わりながら展開する「わが地名論」。この連載を通して〈地名とは何か〉〈詩とは何か〉を考えてゆく。
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前回に引き続き〈虚構〉と地名との問題について考えます。「羽鳥慎一モーニングショーの陰謀」という詩の、パート4に東京ディズニーランドが出てきます。この詩は長いので、一部分だけ引用します。しかし、たとえ全文引用しても〈意味がよく分かる〉と言った内容ではないのです。完全な妄想で、よく分からない話だと思います。ちなみにあらすじを簡単に紹介しておくと、以下の様な感じです。〈僕〉と〈恋人〉が居酒屋でランチをともにしていると、羽鳥慎一に似た男から、東京ディズニーランドの見える修行施設を薦められました。
その羽鳥に瓜二つの男が居酒屋で目の前に座っている。客ではない。おそらくは、オーナーとして。詳しくは分からないが、客の僕に対して、東京ディズニーランドの裏手にあるという、ある修行施設を圧をかけつつ推薦してくる。(「4」全文)
僕だけが、羽鳥の勧めた修行施設に向かうことになりましたが、そこで尿意をもよおし、温泉の風呂桶の中に流し込みます。直前にすれ違った狐の様な顔をした女人の中に射精したかのような奇妙な感覚を覚えたりします。恋人から脳内電話(直接に脳波を使って語り掛けるいわばテレパシーのような通信)がかかって来て、恋人も羽鳥に似た男の推薦した別の施設に行ったが、どうも全然話が違っている、というようなことを聞かされ危機感を覚えます。
僕は危機感を覚えて、修行塔への歩み、というか見学を中断する。どうも予想通り、ここは妖し過ぎる場所のように思われる。窓から外を見渡すと松林の向こう側にTDLが見えている。居酒屋に居たはずの羽鳥慎一が全裸の狐女を連れてTDLの社務所に入ってゆくのが目視できた。
(「15」全文)
作品はここで終わります。ここにも東京ディズニーランドがTDLという略称で出てきます。
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全く、現実とは没交渉のような幻想物語の中に、羽鳥慎一という実在のフリーアナウンサーの名前や、東京ディズニーランドという現実のテーマパークが現れてきます。この二つの固有名詞によって、この作品は辛うじて具体性を保ち、物語が水の様に流れてゆくことを回避し得ているのだと思います。羽鳥慎一は、本人ではなく瓜二つの男という設定ですが、それでも読者は羽鳥の顔を思い浮かべることになるのです。東京ディズニーランドに関しても同様です。この詩の中で語られるのは、その裏手にある修行施設のことで、TDLは添え物に過ぎませんが、読者の頭には、ディズニーのキャラクターや、楽し気なパレードの賑いが想像されるかもしれません。
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既に述べたように、居酒屋でのランチのあと恋人の2人は別々に目的地に向かいました。いずれも、羽鳥に似た男の言葉とは裏腹に、どこか胡散臭い場所に導かれ、危機感を感じるところで詩は終わります。羽鳥は別として、東京ディズニーランドの持つ意味は何でしょうか。
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この連載では、詩の正統的な解釈を試みるのではなく、作者にしか分からない、地名に込められた意味あいを暴露する、というような方向で話を進めています。ここでも、絶対に僕にしか分かりっこないことを書いてみようと思います。
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20代の初めのころ。大学を出て2年目、僕は浦安に住んでいました。自分で家を借りて住んでいた訳ではなく、その前の年に出会った彼女の家に転がり込んでいるというような状態でした。しかし、僕は同時に関西の大学院にも通っており、週の半分は浦安、半分は大阪という得体の知れない生活でした。
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もちろん、その当時羽鳥慎一などというアナウンサーは全く世に出ていなかった(というか、生れていないか、生れていたとしても小さな子どもでしょう)わけですが、東京ディズニーランドは彼女の家からすぐのところにありました。してみると、東京ディズニーランドの裏手の修行施設というのは、もしかしたら、彼女のマンションのことだったのかもしれません。(これは、今の今まで、自分でも気づいていないことでした。もちろん、そんな意図で書いたものでもなく、さらに言えば、読者に分かる可能性は0%なわけですが)
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繰り返し書きますが、この作品は全くの幻想物語のようなもので、そこに寓意も何も意図されていません。しかし、そのような中にも、あるいはそのような中だからこそ、群衆の中を何食わぬ顔で歩く覆面の犯人のように、僕自身にとって、決して忘れることのできない、痛みそのもののような地名が、ふと何食わぬ顔で紛れ込んでいることもあるのです。
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僕の場合に限らず、さりげなく使われているようにも思われる地名の中には、作者にしか分からない、極めて重要な意味が込められていることも少なくないのでしょう。自分で自分の作品を読む場合は、当然ながら作者本人は分かっていても、読者には伝わりようはない。では何故、伝わらないことを書くのか。それは伝わらないからこそ、埋もれてしまうからこそ書くのかも知れません。そっと自身の過去を封印して、なかったことにするために。今、僕がこれを書いているのは、自分の作品に対する反行動であるわけです。ここにあるのは詩ではなく、〈反詩〉。自分の普段書いている詩の根本を覆すものとしての、語り。それだからこそ、もしこの連載に意義があるとすれば、この点だけは、あるのだ、と思っています。
