「主よ、どうか俺の頭の上に原爆を落とさないでくれ」湯原昌泰

2023年01月02日

 単純作業が好きだ。煩わしいあれこれを考えず、身を粉にして働きたい。わけのわからぬあれこれにうつつを抜かすのは暇だからだ。人は暇だから浮気をし、暇だから寂しくなる。紙を入れ、紙を運び、紙を折る。次第に体は熱くなり、徹は研ぎ澄まされていく。
 徐々に体があたたまり、いつしか寒気を伴って、ようやくあれ、何かおかしいぞとそう気づく。仕事を終えたのは夜の十時だった。それから徹は電車に乗り、身震いをしながら家路に着いた。
 私鉄を乗り継ぎ新宿へ。コロナが流行って三年目、気の緩みでもなんでもなく、自身の主張としてマスクをつけない人も増えてきている昨今。それはそれとして、隣の君、大丈夫か?マスクしてないみたいだけど、多分俺、コロナだぞ?徹は思って縮こまり、高円寺に着いたのは夜十一時。コンビニに寄って弁当を買い、サラダを買い、煙草を買った。震えながら火をつける。家に戻って熱を測ると三十九度五分あった。

 どの病院に行けばいいかわからなかったので発熱者専用のコールセンターに電話をかけた。前に雑誌で読んだが、コールセンターにいる人はどの人も同じ苗字を名乗るらしい。例えばいま電話を受けている女性の苗字がサトウさんだったとして、しかしあなたの名前は何ですかと訊くとサトウさんはサイトウですと答える。ヤマダさんもサイトウだし、イソベさんもサイトウである。電話を受ける女性への配慮らしいが、このサイトウさんはこれ以上ないほど親身に対応してくれた。近所の発熱外来を訊いた徹は解熱剤を飲み、倒れた。

 翌朝目を覚ますと会社に熱が出た旨連絡し、頭は洗わず顔だけ洗って外に出た。熱は相変わらず三十九度以上あった。しかしそれ以外にこれといった症状はなく、食欲もあり、味もした。
 外来に着くとすでに何人もの患者が自分の番を待っていた。だが脂ぎった髪は寝癖にうねり、寒そうに身震いをする徹は見るからに高熱、見るからにコロナ、殺人事件があったなら犯人は絶対コイツですといった体で、すぐに院内トリアージをされ、ある意味でVIP待遇をうけた。鼻に棒を突っ込まれ即座に陽性反応が出た徹は晴れてコロナ患者になった。

 処方箋をもらって隣の調剤薬局に行き、見れば同じようにコロナ患者なのだろう七十代の女性一人、三十代の女性二人が外のベンチで待たされていた。ああ、こんな綺麗な人たちと同じ病気ならコロナも悪くないなと、症状の軽い徹は呑気に思い、薬といってもカロナール。つまりはインフルエンザになった時にもらう薬と同じで、解熱剤出しとくからあとは頑張ってと暗に言われて煙草に火をつけた。一九六八年製ジッポには女が左手を胸にあて、右手に鳥をのせている絵が彫られている。この絵はダマし絵になっていて、上下を反転させると女が股に手をあてている絵になる。裏側には「おお主よ、どうか私の上に原爆を落とさないでくれ」と文が彫られている。徹はこの絵が好きだった。戦場という極限でまわりには一人の女もいず、しかし煙草に手をやって火をつけるとそこにニコリともしない女がいる。手にのせる鳥は自由の証。だが反転すれば股に手をやるこの優しい女を見て、一緒に抜いた兵士はいたろうか。女に名前はつけただろうか。仲間の兵士にジッポを見られ、なんだ、愛想のない女だなと言われ殴り合いの喧嘩になっただろうか。そんな、俺たちの上にどうか原爆を落とさないでくれと彫られたライターを、唯一の被爆国に住む徹は手に持ち、さてこれからどこへ行こう。松屋に行ってカレーを食うか、酒屋に行って酒を飲むか。100%の病原菌と化し、どうにもこのまま家に帰っては勿体ないような気持ちになる。もちろん行かないけどな。俺は口先だけでいられないような半端な人間じゃないぜ。おお主よ、どうか軽薄な人間は軽薄のまま、愚かな人間は愚かなまま、俺たち上に爆弾を落とさないでくれ、BANG!!