「Choriさんのこと」奥主榮
僕は、詩の世界の人間とあまり交流がない。他の方の活動には、基本的に興味がないのである。自分は自分で、好きなものを好きなように書いていたいだけである。なので、たまたま場を同じにする機会があった方とだけの関わりはあるが、それ以外の相手との関係はほぼ持っていない。
そうした訳で、昨夏逝去されたchoriさんとの接点も、ほとんど無かった。
1990年代、僕が自分が主催していたT-theaterの運営を、何とか軌道に乗せようと四苦八苦していた。もう千年紀の変わり目に差しかかる頃であったか、choriさんというお名前を耳にした。関西で、素晴らしい才能を持った方が現れたという話である。けれど、直接言葉を交わしたことは一度もなかったと思う。僕は、人付き合いというのを大切にしていない。そのことで失う数多のことがあることを承知の上で、ぞんざいにしているのである。
多分、最初のUPJで、姿をお見かけしたぐらいの接点であろう。誰かが僕に「あそこにいるのがchoriさんだよ」と伝えてくれた記憶がある。その姿は若いオーラに包まれていて、親しい方々と一緒にいて、目映い印象を受けた。
僕の中に、優れた才能を持たれた方へのやっかみもあったのかもしれない。その後も、特に積極的に関わろうとも思わなかった。というか、僕は僕自身が何を描きたいのかを模索することに必死であった。
自分が何をしたいのかを、明確に語れるような表現者になるほど、僕は堕落したくなかった。明確ではないもやもやとした何か。「結局何が言いたいんだ」と周囲からは切り捨てられるようなぼんやりとしたもの。そうしたものをこそ、僕は描こうとして、ときに暴力的になっていた。
そうした思いを裡に抱えたまま、僕は他の多くの作家に対しても、距離を置いていた。けれども、やがては自分自身が主催するオープン・マイクの場を設けたりといった機会にも恵まれていった。そうした中で、choriさんと出会うことをきっかけとして、優れた表現者として立ち上がった方々とも出会っていった。
Choriさんは、人の心を根底から動かす何かを持った方だったのだろうなと、そんなことを思った。そして、心の中で静かに、敬意を抱いた。
僕は、2024年の初めに仕事をリタイアしてから、夜に家にいる機会が増えた。それまでの僕は塾教師であり、午後から深夜にかけて、家に不在であることが多かった。
以前よりは夜の早い時間に家にいるようになっても、妻の生活は余り侵食したくなかった。だから、妻がネットを介して誰かとやり取りしていても、邪魔はしないようにした。
あるとき、妻がオンラインで誰かと対話しているのを耳にした。誰か、創作者であるらしい。その相手は、小さなことに傷つき、些細なことに悩み、けれど繊細な自分をそのままに維持していこうと、少し斜に構えたりしている、素敵な相手であった。
妻がネットを切った後で、「プライバシーの侵害かな」といったおどおどした気持ちを抱きながら尋ねかけていた。「今話していたの、誰だったの?」。
わざわざ明記するまでもないであろう。妻がそのとき話していた相手は、choriさんだった。それは、僕の抱いていた先入観の中の、華やかな評価に包まれた、カリスマ的な存在ではなかった。世界の無神経さに傷つけられて生きてきた、繊細な魂の持ち主であった。そう思ったから、そのときとても強く感じた。
「いつか機会があったら、ゆっくり話してみたいな。」
けれど、訃報に触れたのはその直後であった。一年間、時折数少ないcyoriさんとの接点について考えることがあった。はたして僕は、素顔の彼に間接的にでも触れることが出来たのであろうか。それとも彼は、どこまでも作られた表現者を演じ続けていたのであろうか。
そうした疑念に正解はない。誰とも関わろうとしない僕は、中途半端に放り出されたままである。
けれど、僕は逝去される少し前のchoriさんが、とてもプライベートな場所で漏らしていた声を忘れられないのである。そうして、僕自身もまたどれだけ、自分の飾ることのない声を残しているのだろうかと、そんなことを思うのである。
Choriさんが亡くなられた直後に、彼についての何かを書きたくなかった。僕はそれほど、彼と親しくなかった。けれど、せめて一年後に何かを書きたいということは、抒情詩の惑星の編集長の湯原さんに伝えておいた。僕の距離感から描き得ることを、一年経ったら綴りたいという気持ちは強かった。
それにも関わらず、一年という時を経ても、なかなか原稿を履き始めることが出来なかった。
2025年 9月 10日