「すりぬける実存を追って――ひだり手枕『ミトロジアデバイス』(ライトバース出版、2025年)を読む」ヤリタミサコ

2025年08月02日

 アナーキーで無謀でアナクロで無政府で、萩原恭次郎的時代錯誤的、と見せておいて、その実、冷静に知的に作っているのだろう。まずは、文字の書体だけでも数種類。一般的な明朝体(またはそれに近い書体)、ゴシック体の太い黒々とした書体と、ゴシック体の細めの書体、その上、凝っているのが戦前の活版印刷に似た滲み文字。この他種類の文字たちだけでも、この詩集をどこへ運ぼうとしているのか、予測不可能な感じだ。
 詩集タイトルは、和訳すると「神話装置」という意味なのだろうか。詩集タイトルと言うよりも、ファンタジー分野のアニメ、ライトノベルやゲームなどで現実世界などやすやすと超える、そんなストーリーのタイトルを連想する。その一方では、萩原朔太郎的な、内面へ向かうシニカルな視線もあるようで、創世記と黙示録が両方同時に進行しているような印象だ。ひだり手枕の第一詩集『パンケヱキデイズ』は、劇画のようだったり、戯曲のようだったり、擬古典文など多様なスタイルが試みられている。ただ個別のスタイルそれぞれは面白いのだけれど、1冊の詩集全体としては焦点が合わない感じで、そこはあえてそのような整合性を目指さない、というスタンスだったのだろう。この第一詩集に比べると『ミトロジアデバイス』は、戦前のモダニズム的なイラストと滲み文字が、全体をまとめているように見える。
 私が部分的にビートだなあ、と感じる部分を挙げてみたい。ある1ページでは「食わせる/言葉を食わせる/食わせる言葉を食わせる」というように、右上の行末から左下行末まで段階的に長くなるレイアウトに合わせた詩句を設定している。短い発語から始まって、意図的な繰り返しが配置されている。うーん、これもビートだろう。「繰り返し」というテクニックは、原始的だが効果は抜群だ。繰り返すことで意味が強まったあげくに、過剰の一線を越えるとその後は意味が無化していくのだから。なお、「食わせる」が冒頭の行だが、そのページの最終行は「ウィン」が7回繰り返されて「あいたい」が加わっている。このページの言葉の羅列から意味を取得しようとすることは拒否されているようだ。
 もう1点気になる遊びがあった。「Buddha」という文字を縦書きにして「ほとけ」とルビを振り、その単語を含む1行は「毛もBuddhaもない 落日のむせびに」である。なぜに「けもほとけもない」なのだろうか。たぶん決まり文句の「かみもほとけもない」がモトモトの言い方で、それをアレンジしているのだろうが、「神」→「カミ」→「髪の毛」→「毛」という音の連想による結果、苦笑となる。
 同様な繰り返しは、最終章「君はうつくしい」の最終2ページでも「流れる」「流れろ」「流れよ」「流せよ」が17回繰り返され、「輝け」「死ね」「とまれ」という命令形も目立つ。命令形は、ビート詩ではよく使われる。こういった言葉の激しい使い方は、世界と自分と言葉の間に存在する大きな間隙にひるむことなく、強い言葉でそのギャップを乗り越えようとしている態度だ。自分の望まない形態の世界に対して、命令を繰り返したり、強く抗議している。
 と、部分にばかり目が行くのだが、全体としての詩集レビューを語らねばならない。最初の章に置かれた「これは予兆(イブ)ではなく/おまえたちが/時代(エラ)に/置き忘れたものだ」という4行と、最終章の「舌がもう1枚あったならば/抒情を言葉にせずとも ここにいられたものを」という2行が暗示するのが、ほぼ全体像と考えられる。21世紀テクノロジーが世界のすべてを画一化する時代に対して、腹を立てても爪を立てても歯で噛みついても、人間の生身も声も見失われていくだけだが、21世紀の無謀なドン・キホーテ、ひだり手枕は、その苛立ちを言葉にせずにいられないのだろう。過剰な饒舌さからは、言葉をすり抜けていく実存への複雑な思いを感じ取ることができる。





ヤリタミサコ