「乾いた孤独が陽光を受けてひらめく――恭仁涼子『ブライユを讃えよ』を読む」ヤリタミサコ

2025年11月10日

 恭仁涼子の詩には、乾いた孤独が洗濯干し場のようにひらひら陽光を受けてひらめいている。明るい孤独とか、陽性の孤独とか、天日干しの孤独とか、矛盾する形容をつけたいくらいだ。
 「銚子のキャベツ畑」という詩集最後の作品の全文を紹介する。


   幽霊と散歩するにはうってつけの場所だ
   幽霊と呼べる彼女は海をほしがった
   だから、この
   本州で最初に初日の出がのぼる
   犬吠埼へと連れてきたのに

   「キャベツ畑ばかりあるね」
   「ああ、それは、当然よ。潮風がキャベツの味をまろやかにするのよ」
   「へえ」
   「いいえ、うそ」

   地球がまるく見えると謳った観光地よりも
   その周辺のキャベツ畑ばっか気にしちゃったぼくらは
   彼女の生前となんら変わらない会話をした

   「いいえ、ううん、正直ほんとかうそかなんてわかんないのよね」
   「へえ」
   「お母さんがそう言っていたのよ。あたしの小さいときに、あたしの手を見ながら」

   彼女の人生と
   犬吠埼灯台の階段が
   クロスしたのはその瞬間で
   誰かがキャベツ畑で赤ちゃんが生まれるなんて言ったのは確かで
   赤ちゃんの頃の彼女の手があったのは確かで
   九十九段目を登った瞬間風が耳たぶをくすぐって

   生きてたってゆってた
   生きててってゆってた


 この詩は、キャベツ畑から赤ちゃんが生まれるというヨーロッパの言い伝えを踏まえ、自分ともう一人の自分が自分自身の生と死の境目を散歩しているという内容だ。世間で習慣的に使われる言い回しは正確な情報ではないが(「潮風がキャベツの味をまろやかにする」「キャベツ畑で赤ちゃんが生まれる」)、そこには語り継ぐ人間たちの意図や思惑が隠されている。「初日の出」という概念も、1月1日だけを縁起をかついで特別扱いする社会が決めたルールだ。というように、自分の内的言語以外の他者の言語とは、虚実がよくわからない分量で配合されたものだ。だから、虚実の入り交じる寒々とした現実の前に立ち尽くす書き手は、自分の身体と心の置き場がわからなくなっている。実存を見失い、現実とその裏にある虚構との落差において、幽霊化している身体と言ってもよい。
 そして灯台階段の九十九段目の先では、風によって書き手の心に何かが引き起こされた。「九十九」という数字も忌み数として回避する役割を付与されているので、ここでは生死の境界が想起される。死から生へ吹き返す風が吹きかけてくるのは、「生きてたって」「生きててって」というフレーズ。「生きてたって」は、「生きていてもしようがない」という意味と「かつて生きていた」という過去形の二重の意味を持ち、次に「生きていなさい」という命令形につながる。九十九段目から百段目にかけて、言葉の形式を取らない風の音が、生死の境目にいる書き手を生の世界へ吹き戻す。
 恭仁は現代詩がレトリックのガラパゴス化している方向性を、何一つ気にかけていない。レトリック? それ誰? それ何? というすがすがしいスタンスだ。修辞よりも言いたいこと先行型とも言える。
 もう一編、「サンクチュアリ」の真ん中部分を紹介する。


   (……)
   姉には日記をつける習慣があった
   いつからだろう

   それなのに
   姉にとってやめる、ということが
   こんなにあっさりと
   遂行? されるなどと
   思ってもみなかった

   幼い頃から
   チラシの裏に
   書いていたのに
   そうね
   本当に幸せな出来事って
   もったいなくって字に書けなくなって
   しまうのね

   それを字にしたら
   ただの字になってしまう気がして
   (……)


 この詩でも、もう一人の自分が「姉」として登場する。「本当に幸せな出来事って」「それを字にしたら/ただの字になってしまう」と達観する姉は、その反対もよくわかっているはずだ。つまり、幸福も不幸もどちらも文字にすればただの文字になってしまうということ。だから、身体が絡め取られている現実のモロモロから自分の身を引き剥がすために、日記を書いて「ただの字」にしていたのだろう。書くことで自分がもう一人の自分に語りかけて、その経験を対象化していた。この詩のストーリーでは、姉は失恋をきっかけに日記を書くことをやめてどこかへ去り、もう一人の自分は書くための紙を集めている状態で終わる。これを概観すると、生き直しだろう。抱えきれない自分をなんとか持ちこたえるために書いた日記、失恋で保持できなくなった自分をいったん手放し、それまでの習慣も止めてしまう。しかし、その比喩的な死・エンドが進行する一方で、再度書くための準備が始まっている。書くことで再生していくもう一人の自分。
 恭仁の詩は、共感的に読解しようとしても跳ね返される。作者本人さえも、もう一人の自分に突き動かされて書かされている感がある。自分自身の深奥にある謎を抱えつつ、その謎と対話・対峙しながら言語化して詩ができあがっているようだ。ウェットではない孤独、怒りをもつ優しさ、見ることと感じることの直接性、などに加え、作者本人も持て余すような激しい力動も含まれている。
 詩集全体としてはもう少し熟成させた方がよい作品もいくつか含まれるが、それ以上に、人生のこのタイミングでしか出せない強い感覚が表現されていることに心打たれる。他者からの視線や価値観を気にせずに、恭仁には、自分の強さも弱さも自覚しないで、突っ走っていただきたい。





ヤリタミサコ