「上手い詩」POGE

2025年08月04日

上手い詩がある。

美しい言葉を複雑に入り組んだ隠喩に絡めて端正に綴る。
言葉と言葉の繋がりを日常語の意味の縛りから解放し、新たに開かれたイメージへと転化する。
シュールレアリスム、ダダイズム、フォルマリズム、かつての形式や思想を受け継ぎさらに先へと進化させる。

そういう基本を押さえて、豊かな語彙とレトリックで構築された完成度の高い詩。

詩の世界を眺めているとそういう詩にはそこそこ出くわす。
もちろん、たいていの詩人は上手い詩を書けない。
上手い詩を書けるというだけで、それなりにレベルの高い詩人と言えるのかもしれない。

くだらない。

私はそういう上手い詩を面白いと思ったことがない。
そんな詩は時間をかけて学んで傾向と対策を練れば誰でも書ける。
もちろん私も書ける。
しかし私はそれを捨てた。

つまらないのだ。

上手い詩を書くにはセンスもパトスも内的必然性もいらない。
単純に技術があるかどうかだけで、それは誰でも学べる。
優等生がセロトニンを出しながら書いた詩。

そういうものは見飽きた。

私は詩に技術を求めない。
上手さを求めない。
上手くてつまらない詩より下手でも面白い詩を読みたい。

卑近な例えだが、絵が上手くて構成もストーリーも優れた「上手い」エロ漫画より、稚拙で絵が汚くてもあふれ出るリビドーに突き動かされたエロ漫画のほうが抜ける。そういうことだ。

面白い詩は単純な技術では書けない。
ドーパミンとアドレナリンとエンドルフィンで叩きつけられた文字列。
言葉にできない情念をそれでも言葉にしようと書き殴る。
そういう魂の叫びを読みたい。

詩を書き続けているとある程度は上手くなってしまう。
そして何が受けるかわかってしまう。
一時期私はそれに囚われて、上手い詩ばかり書いていた。
詩人は褒めてくれるが内心はむなしかった。

あるとき、時間をかけて丁寧に書いた「上手い詩」を、「私は嫌い」と言ってくれた人がいた。
詩人には上手いとかさすがとか毎回こういうのを書けばいいのにとやたらと持ち上げられた詩を、一言で切り捨てた。

そういうものだ。

私はそれ以来、受ける詩や上手い詩というものを書こうとは思わなくなった。
それよりも書きたいことを心のままに書こうと思った。
そしてかつてより自分の詩を好きになった。
誰がけなしても、私は私の詩が好きで面白いのでそれでいい。

上手い詩を書くことは誰にでもできるが、私が書きたいものはそれではない。
下手くそでも、魂を込めて書きたい。

そして、そういうものを読みたい。






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