「あるバンドについての、僕なりの記述」奥主榮

2026年01月21日

 昨年の秋、谷中にある工房ムジカ(BAR日暮里モンパルナス)で飲んだくれていたとき、店内に流れていた曲の歌詞が耳に入ってきた。その瞬間、とても強く魅了された。

  夢は必ず叶うから なんて夢を叶えた人達が 臆面も無く唄うから 僕らの居場所は無くなった 愛し愛される事がすべてさ 愛を手に入れた人達が 臆面も無く唄うから 僕らの居場所は無くなったんだ(虐げられた民「居場所」より引用)

 流れていたCDの冒頭の、この歌詞が、理屈抜きでダイレクトに僕の中に響いてきた。
 僕は、人間はどんな生き方を選んだとしても、その場所で理不尽な目に遭わされることを強いられる存在だと、いつしか学ばされた。それは、スクウェアな道を歩んでも、もっと解放されていたいと外れた道を歩んでも、どっちにせよ変わることはない。
 どんな存在であろうとも、誰かが自分を否定されるということは、苦痛そのものでしかない。けれど、毎日の生活を維持していく為には、そうした苦痛を受け入れざるを得ないことがある。それでも、次のような感覚はけして受け入れられるものではない。
「人間としての自分が、踏みにじられた。」
 そうした、誰もが味わう不条理さに対する、噴出する憤りをこれ程誇り高く謳いあげることも可能なのだ。
 と、そんなふうに僕はこの歌詞を受け止めた。

 社会や世間からの、不当な扱いの中で、僕自身もまた自分を惨めな存在だと思い込んでしまう、卑屈な気持ちに落ち込んでいた時期があった。
 まるで自分自身が価値のない、モノのようにしか思えない時期があった。生ゴミを入れた袋が鴉に食い散らかされ、道ばたに残され、回収漏れの汚物に成り果てた。そんなふうにしか自分を思えないぐらい追い詰められていたことがあった。

 CDをかけていた店員さんに尋ねたら、「虐げられた民」というバンドの曲だと言う。それから、数か月後の東京でのライブのフライヤーを渡された。今は沖縄におられるメンバーが、年明けに東京に来てライブをされる。
 そのときの僕にとっては、とても残念なことに、各種の物販も上京したときの公演を待つしかないということであった。

 待つこと数か月。
 今年になって、ようやく「虐げられた民」というバンドの生演奏を体験することが出来た。
 素晴らしいと、何よりもそう思った。
 老齢の僕には、聞いたばかりの歌詞を記憶することは出来ない。ようやく購入したCDの歌詞カードから、もう少し引用をしてみよう。

  腐った大人になりたくない 駄目な大人の俺が唄う
  もうそんな子供じゃないと 大人になれない心で唄う
  もう俺たち良い歳だぜ 同い年の奴らが言っている
  まだお前ら若造だぜ 先輩達が言っている(虐げられた民「天邪鬼社会」より引用)

 例えば、何かを一方的に非難して否定すること。そうしたことで支えられる自意識は、とても危うい。けれど、そうした覇権争いに終始されて、自分を支えようとする方々もおられる。
 歌詞の一部しか引用していないが、この歌の中には、存分に傷付きながら、まだ人間らしくいたいという誇りを保っている個人の尊厳がこめられている。

  自由な君がとても好きで自由でワガママな君が嫌いだ
  安心出来る君が好き そんな君をつまらないと感じる(虐げられた民「天邪鬼社会」より引用)

 こうしたフレーズを、身勝手と受け止めるか、やるせない世界を前に、必死に抵抗している姿と受け止めるかで、評価は左右されるであろう。
 けれど、僕はこんな歌詞にも魅了されてしまうのである。
 根底にある、次のような声に、率直に心を打たれるからである。

  そんなに拳を握りしめるなよ
  開いてごらん 血だらけじゃないか
  そんなに歯ばかり食いしばるなよ
  口開けてごらん 血だらけじゃないか(虐げられた民「血だらけ」)

 何という優しい歌詞なのであろうか。

 この世に、身の置き所のない誰かというものは、自分を誰にも受け入れらられない惨めで無力な存在としか思えないでいる。自分がどれだけ傷付いていようと、血だらけの傷付いた手などは、「周囲の目から隠さなくてはならない」という、そんな強迫観念に追い詰められているのである。

 僕は、ぼんくらな人間である。
 こんなふうに真摯なナニゴトかを描くことはできない。何だか、演奏を聞いている時間が、とても大切なものに思えていた。

 とても素晴らしいライブに遭遇できたと、そう思っている。

二〇二六年  一月 一三日 
二〇二六年  一月 一四日 改稿




奥主榮

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