「僕が関わった詩の界隈」前編 馬野ミキ

2026年02月05日

元々音楽をしていたので歌詞は書いていた詩は、また別のものだと思っていたロックとか映画なんかと比較すると、詩は地味なものだとも感じていただろうまだパソコンが普及する前、ワープロを手に入れた時自分の打った文字、言葉が明朝体でプリントアウトされたことに衝撃を憶えた人間関係でつらい事があったどしゃぶりの雨の日だったもろちん学校の国語の時間などで詩は書いたことがあったが、あの日が自分にとっての詩のはじまりの日だったと思う


それからパソコンを手に入れたのがウインドウズ98だから1998年、前世紀になる東京に挫折し、田舎に帰り工場に勤めたが半年もたたずに辞めたホームページを作ることが流行っていて、日記や詩、短編の小説などをせっせと書いていたこれは後に出会うことになる詩学の寺西さんも読んでいたそうだ田舎での生活に行き詰まりを感じていた自分は、四度目の上京を果すヒモのような日々を送りながらオンラインゲームに興じていたが、ついに恋人に叱られゲームのCDROMをごみ箱に捨てさて次の日から何をしようかなぜか2ちゃんねるの詩・ポエム板に辿り着いた

そしてその頃偶然知った高円寺の無力無善寺で2ちゃんねる発の朗読会を開くことになる三回目は大阪と仙台、東京は夢の島に場所を移して三か所同日開催これが先ほどの寺西さんが編集長を務める「詩学」に巻頭で特集を組まれる夢の島での朗読会にはAERAなんかも取材に来ていたと思う「いまポエトリーリーディングが静かなブーム」みたいなノリで


2ちゃんねる詩・ポエム板での自分の影響力が大きくなったのか「朗読会は、詩・ポエム板でなく、オフ会の板でやるべき」などという意見が出てきて白けたので2ちゃんは卒業無力無善寺にて「はみだしっ子たちの朗読会」を主催詩学にコラムと詩の連載をそれぞれ一年ずつ持ちさいとういんこさんが新宿MARZで主催していたSSWS(シンジュクスポークンワーズスラム)で年間優勝し賞金20万だか30万だかをGETこのスラム(詩・朗読等の競技大会)には、詩人のみならずラッパーも多く参加していたし影響を受けた


同じくさいとういんこさんの跡を継ぐ形でウエノポエトリカンジャム3の実行委員長を務め詩の冊子を1000冊無料で配布したり(その冊子に広告を掲載するというかたちでスタッフたちが頑張りイベントは黒字)同郷の寺西さんと共に「夜の鳥取砂丘の中心で詩を叫ぶ!」を共催したり朗読の為に大阪の假奈代さんのcocoroomに出かけたりもともと音楽をしていたお陰か、朗読には何の抵抗もなかった


蛇口君はゴールデン街の屋根裏のような部屋で朗読会を開いたりタッキー(桑原滝弥)は、谷川俊太郎さんトリュビュート朗読会「俊読」を開催翌日「ミッドナイトプレス」において谷川さんと対談、というような充実した日々を送っていたあの頃自分は「詩で世界が変わるのではないか」と思っていた


重兼さんの1000番出版から第一詩集「子供の晩年」を発表、後に白昼社より復刊続いてポエトリージャパンから詩画集「下敷きで光を」(廃版)もともとは現代詩フォーラムに書いていた表題作、第三詩集「キム」はAmazonの現代詩売り上げランキングで二位を記録といっても何千冊と売れるわけではないが

詩学のワークショップの講師を究極さんがしておられたもともと早稲田のあかねは、自分の詩の朗読デビューの場であった

詩学の経営が傾いていき、寺西さん一人で詩学社を運営するようになっていた自分は結婚し子供が生まれ、表現の現場から少し離れていたかもしれない


結局、詩学は社を畳むことになり、無力無善寺でお別れ会をしようということになったお別れ会には関西から来てくれた方もいたが、寺西さんは来なかった翌々日、湯島の寺西さんの自宅を兼ねた詩学社へ向かうと先日、お別れ会の打合せをした時のまま、日本酒のパック酒がテーブルの上に置かれていたもうもうとする一つの扉を開けると、布団の中で寺西さんは永遠の眠りについていた。








馬野ミキ