「八月某日 晴」川原寝太郎
社長が飛ぶという噂が二週間ほど前から流れていた
PCの検索履歴に「飛行 事後処理」「飛び方」という単語が残っていたとか
隣の駅のドン・キホーテで羽用のワセリンを選んでいる姿が目撃されたとか
ときどき鉄腕アトムのテーマ曲を口ずさんでいるとか出所不明の情報が回って来た
最後のは社長の世代的に口ずさむならウルトラマンだろうと思ったが
そんな軽口を叩ける空気では無かった
極端なワンマン経営者である社長に対し
面と向かって真偽を問える人間は社内にいなかった
意を決した営業部長がこっそり警察の飛行課に相談しに行ったが
既に飛んだ人間の捜索以外は受け付けていないと門前払いされ
あいつらは駄目だ給料泥棒めと憤懣やるかたなく戻って来た
いつ飛ぶのか
飛んでどうするのか
それは飛ぶ本人にすら分からないのだ
人生のある日、決然と飛ぶ運命に目覚め
ひとたび飛ぶと決まれば何も考えず宙に身を投げる他に道は無いのだ
そんなことをお祖母ちゃんはいなくなる直前に言ってたよ
多感な十四歳の折に目の前で生みの親に飛ばれた父が
ある年の法事の夜、二人だけになった時に
半分も減っていないビールのグラスを傾けながら呟いた
親戚内でタブーとなっている祖母の飛行について
父が私に話したのはその一回きりであり
私はその話を妻にも娘にもしたことがない
営業回りから戻って来た午後三時半
高度約四十メートルの空にやけに大きい真っ白な翼を見た
お気に入りのストライプスーツのスラックスに
上半身ランニングシャツ一枚の社長が背中から羽を生やしていた
瞬間、呼び止めるなら今しかないという確信が脳裏を過ったが
硬直した喉から声は出なかった
社長は駅のランドマークタワーに真っ直ぐ突っ込んで行くと
水泳選手がターンするように縦半回転してビルの壁を蹴り
弾みで脱げ落ちる革靴に構うことなく百八十度ロールしてから
力強く羽ばたいて上空へ昇って行った
急いで帰社すると意外にも静まり返った事務所で
社長秘書兼奥さんが一人わあわあ泣いていた
社長室が荒らされているのは
書置きを探した奥さんの手によるらしかった
目撃した後輩の花隈いわく
社長は決然とジャケット及びワイシャツを脱ぎ捨て
社長室の隣に去年作らせた特設バルコニーへ立ち
両腕に力こぶを作ったと思うと
その背中からみるみる白い翼が生え
次の瞬間には床を蹴って空中へ飛び出して行ったそうだ
部長を門前払いした市警察飛行課が今度はすぐに駆け付け
花隈と私も事情聴取を受けた
担当の刑事曰く飛行者の45%はそのまま行方不明
30%は死亡が確認され15%は別人として生活している
ただねえ、と刑事は躊躇いがちに付け加えた
飛行者の殆どは人目を避けつつも低空を飛ぶ
上へ昇って行った者の殆どは寒さと酸欠で命を落としてしまうと言う
あれ以来、鉄腕アトムのテーマ曲を耳にすると心拍数が上がる