「さよならのかわりに」究極Q太郎
だめ連のペペ長谷川さんが亡くなった。三年前に胆管癌と診断され、その時「手術を受けなければ余命半年」と医者から言われながら、外科手術を受けずに自然療法で治そうとして闘病中だった、享年56歳。若い。私たちの周囲では若くして逝く人がとても多かったが、彼にはもっともっと長生きして"高円寺のヌシ"として世に憚り、ろくでもないことばかりのこの社会に向かって「食い込み」続けて欲しかった。
「食い込む」とは、「交流」(「コーリュー無限大」などとキャッチフレーズ化された)という言葉ともに彼がよく使っていた語彙のひとつで、もともとは400勝投手金田正一がスポーツ新聞か何かに連載していたコラム「カネやんの'食い込んだるで'」から採って、「トーク」によってひとの懐に入り、表面的ではない、本質的な話をする、というような意味として彼が愛用していた言葉である。
私は彼とは同い年で、30年以上むかし知り合い、その頃、互いがしていた、地域でアパートを借りて生活する脳性麻痺者の介助者として接するうちにやがて親しくなった。泊まり夜勤の彼のあとが日勤の私という順番だったのである。その脳性麻痺者というのが金井康治さんという人で、1979年文部省が出した養護学校義務化、障害児は一律に養護学校へという政令に対し、「障がい児も健常者と隔てなく普通学級へ」という就学運動をした末、普通学級へ通うことがかなったものの、入学した高校でいじめにあって不登校となり、挫折感から酒に耽るようになっていた。30歳で彼は慢性アルコール性肝障害で急逝した。それが9月11日で、二年後のその日に同時多発テロが起きた後、ぺぺさんや私を含めた元介助者たちは、その事件を、自身の境遇をかこちながら死んだ「金井康治君の呪い」などとまことしやかに話したものである。
いまも私は同じような生活(「自立生活」と呼ばれている)をしている障がい者の介護を生業としているのだが、その頃は支給される介護料(介護への対価として行政から支給された)も少く、そこで行われることは、仕事というより、「交流」という言葉によく似た活動だった。日勤の私が出勤時間の午前9時に着いても、前夜酒をくらって夜更かしをしていたであろう二人は寝ている。金井さんの日中活動が始まってもしばらくぺぺさんはそのまま寝続けていることがよくあった。
ある朝、金井さんの家の扉を開けると、玄関に面したダイニング・キッチンのテーブルに着座し、見知らぬ、年配の男性が、一人で黙々とビールを飲んでいる。金井さんもぺぺさんもまだ寝ており、そんな二人におかまいなく朝からきこしめしている闖入者的な姿は、ちょっと不審な光景であったのだが、それよりも印象深かったのは、瓶をとり、グラスに注ぎ、口に運ぶという一通りの仕草で、私が子供の頃に家に飾られていた水を飲むガラスの鳥のオモチャ、ドリンキングバードか鹿威しのように、一定の、淡々とした、そのふるまいのリズムだった。間然するところがないかのように錯覚させるほどの。その佇まいから笠智衆という役者が演ずる劇中人物を連想させたその人は、誰あろうぺぺさんの父君であったのだった。
その日は確か年始の一日で、ぺぺさんの父君は夜まで私たちと過ごした。その間に私は、ぺぺさんと父君の親子関係をかいま見たような気がしたのだが、それは不思議な、おかしみに包まれていた。私たちが皆で、金井さんの知人の家に年始の挨拶に伺った道中、同行したものの既に千鳥足となっていた父君は、僅かな段差に蹴躓いて倒れそうになったのだったが、ぺぺさんは「あぁ危ない」と観察者のように声をかけながら、直後私たちに向かって「これっぽっちの段差に躓いているよ~」などと含み笑いしたのである。
ぺぺさんは私たちとの会話の中で彼の父君のことを語る時、人物名を呼ぶように呼び捨てで呼んでいた。彼がだめ連の中で企画した様々な活動の一つに「老人とあそぼうピンポンパン」というものがあって、その頃だめ連の「界隈」で行なわれていた「沈没家族」という共同保育の向こうを張り、彼の父君の相手をするひと募集という、「ふざけた」企画であったが、何かその一事にもちょっと風変わりな家族像が覗いてみえた。その企画には、木村千穂さんという絵描きの人が応募して、その光景を描いた彼女の絵と体験記がだめ連機関誌『にんげんかいほう』に掲載された。
私は彼が亡くなる前、何度かぺぺさんを訪ねている。彼が「あそこは地獄ですから」と苦笑していた高円寺のアパート(数年前に『週刊SPA!』の「汚部屋」特集で知人のライターに紹介された)からは離れて、埼玉県和光市の実家(バンド、アナーキーの曲『団地のおばさん』の舞台)で一人療養生活を送っていた。自然療法に「絶食」を採り入れていたようで痩せていたが、一見健康に見えていた。
昨秋、一緒に散歩した日は、その直前暫く絶食した後、少しものを食べている、という話を聞いていた時だったが、調子がよいということでそこそこの距離を歩いた。「久しぶりに来た」と感慨深そうにしていた幼い日の遊び場等を案内してくれ、そして和光市駅そばのバッティングセンターに立ち寄って、昔だめ連と「枯木灘」という文士たちの草野球チームの対戦試合で、投手をつとめていた評論家柄谷行人からホームランを放ったこともあるというフォームを披露してくれた。
最後に訪ねたのは2月5日で、数日後に亡くなったと想定される日の直前だった。私はその日、彼が本を貸してくれるというので訪ねたのだが、あらかじめ「具合が悪いからそんなに相手できない」と言われていた。「絶食して調子がよくなって、散歩などもしてたんだけど、昨日中華丼を食べたら具合が悪くなった」等と話したあと、小春日和の日差しを取り入れようと、換気のために窓をあけるや、「寒い」と布団を被ってすぐ眠ってしまった。枕元のラジオは彼がよく聞いていた番組『大竹まことのゴールデンラジオ』を鳴らしていた。
私は暫くそこにいて、貸してもらった本をパラパラと眺めながら、あらためて部屋の模様を眺めた。最後の一員となってしまった彼を見守るように、部屋の壁に飾られた父君、若くして亡くなった妹さん(彼女が大学生の時、介助グループの合宿先の北陸の海で、溺れた障がい者の同行者を助けようとして海に吞まれた、と聞いた)の遺影に見下ろされ、数年前に亡くなった母君(驚く程若く見えた)の遺品等、彼の家族たちの痕跡に包まれながら、すやすやと寝入る彼の顔をみているうち、ふと、「このまま静かに逝ってしまうのではないか」という想念がよぎった。
日が暮れてきたので、夜露はからだに毒だと思い窓を閉めてから、彼を起こさないで引き払った。さよならを言わずに。その夜電話で、だめ連の神長恒一さんに、昼間頭をよぎった想念のことを伝えたところ、神長さんも心配し都合がついたら訪ねてみると応じてくれた。神長さんから連絡を受けて翌日、現在だめ連の本を製作中の現代書館編集者原島さんがヒートテックを差し入れがてら訪ねてくれた。その時の様子だと部屋の中でうつ伏せになって本を読んでおり、思いのほか元気そうだったようで、それを聞いて私も少し安堵をした。
そして翌週の水曜日。昼間、その原島さんから、ぺぺさんに連絡をしても返事がない、様子が変だ、仕事が終わり次第訪ねてみる、というメールが届いた。私は毎週水曜日、東久留米にある、自分たちで古民家を改修して作った、子供が遊べるスペースを設けた玄米レストランの手伝いをしており(そこはぺぺさんも幾度か遊びに来てくれて、店の前に流れる川につかったり、近所の雑木林を歩いたりして気に入ってくれていた場所だった)、その日も午後5時までそこにいた。そして帰宅した時、原島さんの電話からの着信。「やっぱ、だめだったわ」と。声が震えていた。私は急いで、ぺぺさんの家に向かった。ちょうど、交番の警察官二人がいて、事情を聞かれているところだった。彼は、布団の上に前のめりに倒れており、死に顔は見えなかった。
それからだめ連の神長さん、いかさん、あかねでぺぺさんとスタッフをともにしていた真哲君が駆けつけた。彼らが来た時は、交番の警官にかわって朝霞署の刑事たちが来て事件性がないか実況見分をしている最中で、私たちは寒い屋外に締め出され、そこで長く待機させられた。神長さんは到着してから一度もぺぺさんを見ていない。会いたい旨を言ったところ、唐変木の警官が駄目だと言って、少し怒鳴りあいになった。
* * *
寒さに震えながら、私は、ただただ呆然としていた。そして、ただ、この晩のこの寒さをきっと忘れないだろうというようなことをひたすら思っていた…