「現代詩とは何かー答える」⑨ 個人的な宗教としての詩 平居謙

2022年07月01日

シリーズ 短小突貫ヘンタイ式連載
「現代詩とは何かー答える」⑨
個人的な宗教としての詩



詩は個人的な宗教である。神を見失った中心線の存在しない書き手には、詩を書く事はできない。


詩はそもそも神について語るためにあった。現在書かれている詩は、それをぬるま湯に溶かし薄めて、分かり易い末の形で、楽しい雰囲気を醸し出させ地上に誰かが落としたのだ。


最初は面白くみんな弄んだけれど、神のことを忘れた時、たんなる紙屑を毎日集めてはまき散らし拾ってはバラまいているのと同じくらいに虚しいことにまだ気づかないでいる。地上の詩。それはやりたいだけやればいい。しかし、中心線に神がいることを忘れては、どこか締まりがわるい。


宗教に似ていると言って、詩人が教祖になったりカリスマになったりしているようでは、宗教そのものである。それに宗教の中心線をなすのは、誰にでも分かり易すぎる救済の理念であり、あほうどもをかき集めるための御詠歌であり讃美歌であり聖歌に過ぎない。


宗教になれというのではない。宗教が俗化して語ろうとした教祖たちが、若い日に考えたであろう宇宙や存在について考えようというにすぎない。それを誰かに剛圧的に拡げたり、自分の書法を信じないからといって排除してゆくようになると、これはまさに宗教そのものである。


宗教家はある一つの理念を信じ、それによって人々の救済の道を創造しようとする。それを誰かに伝える。多くの人々が軽蔑した目で彼や彼女を見ることだろう。しかし根気強く布教し続けることで彼の周囲に極めて特殊な人たちが集まってくる。これが原始的な意味での教団の発生である。周りの誰かが神輿を担ぐ。純正な教祖はそれに乗ることを拒み、商売人があとの一切を引き受けて拡大する。


詩人は一篇の詩の完成を自ら祝い、それによって新しい世界を作ろうとする。故なく多くの人にそれを見せびらかす。少なからぬ人が奇異の目で彼や彼女を見ることだろう。しかし悪びれず創作し続けることで彼の周囲に同じような人々が吸い寄せられてくる。これが極めて普通の同人誌の始まりである。一人の同人がその中の可愛い同人とデキる。やがて同人誌は分裂し、その中の最も大したことのないと思ってたやつが、突然中原中也賞に応募して有名な出版社から詩集を出してみんな驚く。


詩と宗教は似ている。似ているところは多いけれどもやっぱりどこか違っている。他の人がだあれも信奉することのないちいさなかみさまを密かに信じても誰も文句を言わない自由があるという一点がやっぱりいちばん、違っている。









平居謙