「現代詩とは何かー答える」6 ー詩をコンスタントに書くということについて 平居謙

2022年04月01日

シリーズ 短小突貫ヘンタイ式連載 「現代詩とは何かー答える」⑥ 幸せな日の呼吸法
ー詩をコンスタントに書くこということについて


「最近あんまり詩が書けないんだけど、どうしたらいいだろう」とある女の子が言った。その時は言わなかったけれど「事態はそなたとっても幸せなことじゃないか」と僕は思ったのだった。よく言われるけれど幸せな時には詩なんか浮かんではこない。


もちろん幸せなことを書いた詩もあるけれどそれは大抵幸せじゃない時に幸せだった時のことを思って書いた詩に違いない。辛い時に詩を書くことはあっても、幸せの時はすぐ幸せの中にとっぷりと浸かってしまうから、詩を書く暇もないし書く必要もない。大谷翔平のホームランを見ながらビールを飲んだあと、幸せな気分で寝てしまうこととそれは似ている。


そのコに直接言おうかとも思ったが、なんだか照れくさいので止めにした。そこかわりこの抒情詩の惑星に書くことにした。というのも「書けない時にでも書くのか?詩を」という問題は、現代詩の本質に割合と近い所にあると思うからだ。


幸せすぎたりだとかそのほかの理由-例えばいろんな用事や仕事が狙い撃ちするかのように突然総攻撃をかけてくることは生きている中でしばしばあることだがーによって、詩が書けないことがあったとする。で、その人が雑誌や何かに連載で詩を載せていたとしよう。そうすると、どうしても無理やりに書くことになる。それをどう考えるか、だ。このことについて考えることは詩について考えることだ。


結論から言えば書き続けるべきだろうと僕は思う。そしてその理由は連載を止めると二度とチャンスがなくなるとか、義理が立たないとか、読者に悪いとかそういう問題を超えたところに存在する。というのも、詩を書くことは詩人の「息」だからだ。雨が降っているとか、身体がだるいとか、昨日食べ過ぎて胃が重いとか、いろんな理由があっても息を止めるわけではない。うまい息だとか、へたくそな息だとか、そんなものはない。なぜならそれが息というものだからだ。ただ呼吸をするように、詩は知らないうちに身体からこぼれ出ている。それに気づかないだけだ。


「息」というのが極端な言い方だとすれば、「仕事」に置き換えてみてもいい。仕事を続けてゆく中では、楽しい時もしんどい時もいろいろある。当たり前のことのように仕事に行ったりする。詩を書くこともそれと同じだ。詩を書く人のことを詩人という。もし、好きな時にだけ詩を書いて、思いつた時にだけどこかに発表するとするなら、それは詩を書くオンナノコや少年ではあっても詩人ではない。詩人は年がら年じゆう、詩のことを考え続けている。当たり前だ。仕事だからだ。息だからだ。


それはちょっと辛いな、と思ったら降りることだ。だれも止めないし、むしろ健全だろう、詩人ではないという事態はとても歓迎される日常世界であるぞ現在。それに現実の息ではないのだから、ほんとうに死ぬことはない。けれども。


しんどいな、今日はやだな思い続けながらも詩を書き続ける時には強い風の抵抗を受けながら書かざるを得ない。そういう時に書かれ続けた詩は、実に引き締まっている。だからすとん、と読む人の心の中に嵌るに違いない。これこそが、いい詩を書くチャンスだと僕は思うよ。