「自然体のヒューマニズム詩ーー佐藤yuupopic詩集『シの本』について」ヤリタミサコ

2022年11月05日

〇現実に生きているということ
 詩人が詩を書こうとするときは魂が舞い上がったり地獄巡りをしたり、尋常ではない世界に入り込むことも多々あるのだが、この詩集はそういった心理的な別世界への指向はなく、現実の枠組みの中で軽やかに思考している詩である。毎日生活するために歩く足と、思考をアウトプットするペン(またはキーボード)を持つ手、それが等身大で見える詩集だ。特に冒頭の「シの本」と最後の「裏にわには」の2作品では、夢想の中に詩があるのではなく、平凡な日常の繰り返しの中にキラリと光る詩が潜んでいることが描かれている。
 例えば、野球モノ。佐藤yuupopicは野球詩人と呼ばれていて野球の比喩も多いし、野球の場面も多数登場する。この詩集の12編のうち半分は野球ネタが含まれている。が、野球というスポーツそのものをテーマにしているわけではなく、日常生活の一場面に含まれていると考えた方がよい。自分のスケジュールを確認するのと野球の試合予定を確認するのは同時進行しているはずだし、過去の楽しい/悲しい思い出も野球の試合と結びついているのだろうし。私の場合は美術展の予定は自分の生活の一部で、手近な比喩としてピカソやモンドリアンを連想することが多い。だから、野球や美術展は日常の範囲での楽しみであり、かつてもこれからも続く日常の中のささやかな喜び、ビールとかスイーツとか、そういった位置づけかもしれない。予想以上に愉快に感じるときもあれば、がっかりもある、そんな日常のちょっとしたアクセントだろう。佐藤yuupopicの詩は現実離れをすることなく、地面にちゃんと足が着いている。

〇「シの本」という作品について
 このタイトルからは、「シ」とカタカナ表記されている単語に対して???と少々の疑問や立ち止まる感覚を持つことになる。通常は「詩」と表記されるはずの「シ」をどうしてカタカナ表記にするのか?と。ページを追ってピックアップしてみる。最初のページでは、「シ人」「シを描き」「シ集」とあるので、これらはみな「詩人」「詩を描き」「詩集」の意味だ。2ページ目の「シなない」は「死なない」である。続く「亡くなったシ者」「シを想いみずからシを選んだ」「希シ念慮」は、「亡くなった死者」「(詩または死)を想いみずから死を選んだ」「希死念慮」と読むことができる。その次の「みずから選んだシ」「道半ばのシ」「不慮のシ」の3つの「シ」はすべて「死」である。
 このように、"シ"という1音節の単語の意味は"詩"から"死"へ移行してくる。そして"詩"と"死"は、薄膜を挟んでうっすら見えるくらいの隣り合った位置から、だんだんと濃厚に重なり合ってくる。だから「シの本」なのだ。つまり、詩と死の両方を含んでの「シ」である。おそらく作者は、大事な人を突然死で失っているだろうことが推測される。
  あなたひとり
  こちら側に
  つなぎとめることのできなかったわたしが
  シを描いていることに
  何の意味があるというのだろう
  いや
  意味なんてなくていい
  だって
  わたしにできることなんて
  他にありやしないんだから
これは、シ人、佐藤yuupopicの静かな覚悟である。「あなた」を生の側に引き留められなかった作者が自責の念を持ちつつ、その"死"を"詩"に取り込んで詩作品で「あなた」の生に答える、という強い意志である。
 友人や兄弟、恋人を突然の死で失うことは、大きな衝撃である。事故でも自死でもその人のためにできたことがあったはずだ、という悔悟が襲う。カラフルだった毎日の風景は、すっかり白黒のモノトーンに変わり、元通りの世界が未来に存在することなど、思い描くこともできない。それでも、人は渇き、飢え、求め、与える。大切な人があちらの世に行ってしまった後でも、自分は空腹を満たし、寝て、仕事へ行く。何もできない時間を経て、否応なしに現実に引き戻されてだんだんと以前のような生活に近づいていく。これが生者と死者を分けることなのか、と諦める気持ちに変化していく。
 消極的でも生きる方向に向かい始めると、死は別のカタチで生に入りこんでいることがわかる。何の変哲もない日常の中でも死者を感じることは可能だし、自分の生はどこかで死につながっていると考えれば、死者とも切り離された存在ではないと思える。絵画で言うとゴッホや鴨居玲が作品の中に死の要素を濃厚に描いているように。そうすると、次のような心境にいたるのだろう。
  イマを生きいつかシ者になるものを
  畏れるからこそに
  愛おしさはつのり
  描く
  シを想い
  だからこそ
  強く
  あなたやわたしの
  生きる
  を願い
  シを描くように
  わたしの
  シで
  セイ(生きる)を描く
シを描くこと=詩を描くこと=死を描くこと、つまり、死を直視することで生が見えてくるのだ。死と隣り合っている生だからこそ大切なものだと実感されている。

〇「裏にわには」という作品について
 タイトルは「裏庭には二羽ニワトリがいる」という早口言葉から発想されたと思われる。つまり、机上で観念的に構想された作品ではなく、日常的なことばあそびと同等な詩であるということ。この作品では、気軽におしゃべりするように、水を飲むように、呼吸するように軽々と行ワケ詩が繰り出されている。歩くリズム、相づちのタイミングのような、人間の自然な身体に沿ったことばたち。
 この詩のあらすじを書いてみると、縁あって東横線の小さな町の本屋の運営に関わることとなった作者が、これまた偶然の出会いをきっかけにして、裏庭の農地での小さな農耕に手を貸す喜びが描かれている。コロナ禍で自由が制限され人々の生活は自粛を余儀なくされたが、そういった状況の中でも小さな喜びを見いすことができる。
  先の見えない日々の
  いつ明けると知らぬ夜の
  薄暗いただなかで
  地べたに這いつくばるように
  手探りで身体を折り曲げ
  進むしかなかった
  (略)
  ちいさなちいさな
  畑が生まれた
数々の制限や中止のために明るい未来を見通せない状況でも、仲間たちと手足を動かして共同作業をすれば、希望が見えてくる。
  数多の中止や無期限延期
  そんな 
  繰り返しの続きのなかにあって
  なお
  新しいことがあるということを
  新しいアイデアを
  交わしあうことができるということを
  何にも代え難い
  さいわいだと
  土をつかむ
  ほのかに熱帯びた実感を
  いとおしむように
  やわらかに
  かつ
  指の間を
  すり抜けてしまわぬように
この引用の最後の2行が佐藤yuupopicの個性をよく表わしている。「土をつかむ」という地味な体験を大事に味わい、その小さな幸福がこぼれ落ちないように願う気持ちが素直に伝わる。
 多くの人は幸福なときはその幸福に気付かずに、その幸福が失われて初めて気付く。仕事でも趣味でも順調なときはそれが当たり前で、不調になって初めて順調だったことに感謝できる。でも、ここではそういう過去の自分の経験から、作者はこの眼前の幸せを受けとめ、しっかり味わい、後悔しないようにキープしたいと自分に言い聞かせている。ただし人間のすることには100%はないから、わずかに指をすり抜けるものも自然にまかせ、できる範囲で「すり抜けてしまわぬように」するのだが。
 詩人の人間性について問われることは少ないが、私はここではあえて取り上げたい。エゴイスティックで他者を傷つけるような人物であったり、犯罪などの前科があったとしても、その詩作品を私はその人の思想とか行為とかと結びつけて考えないことにしている。が、正反対に、佐藤yuupopicのその人間性の豊かさや謙虚さを美徳として挙げておきたい。指の間をすり抜ける小さなものを大切に思うその気持ちは、ヒューマニズムの原点だ。インターネット上での言論が、優劣を競うことや同調圧力に偏ったり、冷笑的・扇情的な態度が多く見られる中、大量の情報の中でバランスのとれた人間観を持ち続けるのは難しい。しかし佐藤yuupopicには、ストレートな人間愛がある。それは自分と他者を同等に尊重することだ。口で言うほど簡単ではなく、日本の習慣では自分を卑下することは多いし、自分を尊重する言い方は嫌われる。余計な予断や偏見を取り除き、自分が消化した言葉で淡々と表現する佐藤yuupopicの態度が好ましい。

〇コンセプチュアルであること、野球詩ということ
 この詩集には、コンセプチュアルな実験詩「『待てど暮らせど、サーカスはこない』展覧会のために作り下ろしの詩画集の原稿」と「『待てど暮らせど、サーカスはこない~巡回展』のための壁画展開の描き下ろし散文詩」が収められているほか、ポップに見えるが強い文明批判が込められている「4・29(ヨンニーキュウ)」もある。また、竹内まりやの歌詞の雰囲気に似ている「Take Me Out to the Ball Game」という詩は野球観戦から始まる男女の恋の始まりなのだが、「昨日の続きの今日が存在している/それだけでかまわない」と語り手の女性が言う。ここでは野球という一つの娯楽を題材にして、現代人が見失っている"未来への希望"が真っ当に描かれている。「当たり前に朝を迎え」「当たり前に/野球が観られる明日がくるだけで/他にはなんにもいらないくらい/しあわせで」という飾り気のない言葉たちは、白米のおいしさのような素朴な喜びだ。
 こういったヴァリエーション豊富な書き方は、佐藤yuupopicの人間観察眼の着目点がユニークなことと、作品に対するコンセプトがしっかりしていることに由来する。以上にあげた4編の詩作品は、どういう道具を使ってどういう作品に仕上げるか、が熟考された上で書かれている。詩の書き方はいろいろとあるが、自分の生を肯定することは共通する。ただ、自分を肯定する方向が強すぎると、結果的に他者の立場や思想を否定する方向に向かうケースも出てくる。そこのところを佐藤yuupopicは野球という枠組みを取り込むことによって、大らかに他者も自分も肯定してみせる。おそらく、野球という球技自体が多様な視点・多様な価値観を含むものだから、詩に余裕が出てくるのだと思われる。自分自身の内面を掘り込む方向の現代詩も多いが、それと比べると、鷹揚なヒューマニズムが見える。
 現代詩では時事的なトピックを詩に取り上げる人も多いし、最近だと宗教2世問題の詩もある。が、時代が変わってもちゃんと読まれる詩は、ある種の普遍性を獲得している。短期的な価値観には距離を取り、身近な流行や話題に耳目を閉じ、人間というものをまっすぐに見つめることで時代に左右されにくくなるはずだ。佐藤yuupopicの場合は、野球という不易流行の柱があるからヒューマニズムが自在に存在できている。肩肘張った人間主義ではなく、自然体のヒューマニズムというべきだろう。高価なフランス料理などの特別な料理ではなく、日常にプラスアルファで少しだけ幸せになれる毎日のささやかな幸せ。あるいは、気持ちの滅入ることがあっても明日はなんとかなるだろうと、根拠のない楽観を持てること。そのような等身大の人間主義が、佐藤yuupopicの魅力である。