「雨は、神さまのおっぱい(4)」荒木田慧

2023年09月19日

ゴミ収集車がのろのろと通りを近付いてくる。
車体のスピーカーから流れ出る、調子はずれな電子音。
夏の午睡のあとの気怠さ。行き場のないノスタルジー。
聞き覚えのあるメロディだが、これはなんという曲だったか?


木曜日の午後遅く、海を見に行った。
終点までバスに乗り、漁港から堤防沿いをまっすぐ歩く。
干潟へと続く通りに、ひと気はほとんどない。
雨上がりの空はミルク色をしている。
日没に間に合うだろうか、振り返ってイサムを急かす。
大きな風車の足元に堤防の切れ目を見つけ、砂浜へ降りると干潟がひろがる。
海へと続く細い足場の向こうに、ちいさな赤い灯台が見える。
あそこまで行きたい、とイサムは言う。
やめておけ、と引き留めるがイサムは言うことを聞かず、私は結局イサムのあとを追う。
テトラポットのあいだ、漂着したプラスチックはどれも色褪せ、それでもまだしっかりと輪郭をとどめている。
ちいさな赤い灯台の、てっぺんまでイサムはよじ登る。
堤防沿いに戻るころには日が落ちていて、私は泣きたくなる。
みつけたバス停には「9號風車」とあるが、バスが走っている気配はない。
海を左手に、遠く港町の明かりを目指してひたすら歩く。
夜は一歩ごと深さを増し、街灯がアスファルトをだいだい色に染めてゆく。
どこにも、誰もいない。
道の右手には巨大な風車がどこまでも等間隔に並び、先へと急ぐ私とイサムを見下ろしている。
おとなしい怪物のような、その虚無の表情。
無機質なひとみの内側で、慈悲と諦めがふるえている。
この世の終末を見届ける、複手の観音たち。
海風を抱きとめる、その腕の回転音だけが夜空を満たしていた。

月曜日、約1ヶ月のあいだ世話になったアパートを後にして、台中駅まで歩く。挨拶に寄ったが大家は留守だった。毎日のように通いつめた食堂は、シャッターが閉まっていた。馴染みの道教廟は開いてはいたが、前のテーブルに見知った顔はなかった。ここのおばさんには、神さまに捧げる蓮の花のつくり方を教わった。おじさんは壁のカレンダーを破って、ボートをふたつ折ってくれた。別のおじさんは、檳榔(ビンロウ)という昔ながらの噛みタバコを教えてくれた。誰にもさよならを言うことはできなかった。

駅に着くと、発車まであと1時間あった。イサムは通路に立って笛を吹き始める。私は向かいの柱に背中を預け、バックパックのあいだでじっと目をつむる。

「50元くれないか、水が欲しいんだ」

顔を上げると白人の大男が立っていた。ロウのように青い顔に、色素の薄いうつろな目をしている。ボロボロのTシャツに汚れた短パン、むき出しの脚は傷だらけだ。台中駅に路上生活者は多いが、白人の姿は初めて見た。

求めよ、さらば与えられん。

買ってやるから一緒に行こう、と目の前のコンビニまで連れ立って歩く。黒いTシャツに空いた穴から、男の白い肌が覗いている。ホットドッグも買ってくれよ、ふたつ、と男は要求し、私はしぶしぶ了承する。セルフサービスのホットドッグを什器から取り出す男の不器用な手つきを、レジの店員が訝しげに見ている。男はスナック菓子の大袋もねだったが、それはきっぱり断った。菓子くらい買ってやりたい気もするけれど、私とイサムの食費予算は2人で1日300元(1400円)なのだ。男に水とホットドッグを2つ買って、それで110元(500円)だった。

店から出て品物を渡すと、男は柱の脇に座って食べはじめた。身体を起こしているのが辛いのか、一口頬張るごとに仰向けに横になる。じっとりといやな汗をかいているようだ。病気があるのか、具合が悪いのかと聞いたが、どうやら酒のせいらしい。ときどき呂律がまわらず、目つきが怪しくなる。発車時刻までまだ時間がある。少し話さないか、と声をかけると男は応じた。

男はイギリスから台湾に来たポーランド人で、名はダウィドといった。台中の海沿いで風車に関わる仕事をしていたが、アル中でクビになり、行き場がなくなって路上生活をしているという。

海沿いの風車。

その風車なら数日前に見たばかりだ。
干潟に立ち尽くす巨神たちと、虚空を覆う人工羽根の唸り。
はるか未来の遺跡。
この男はあの場所で働いていたのか。

「依存症なんだ」

酒でむくんだ男の手が、地面に置いた水のボトルのあいだを震えながらさまよう。

お前のことを教えてくれ、お前はなにをして生きているんだ、専門はなんだと男は私に聞く。オーケストラのフルート奏者を目指したが、才能がなくて諦めたのだと私は答える。お前の専門は、と男に聞き返すと、男は「いくつもある」と指を折った。よく聞き取れなかったが、そのときだけ男の瞳は精気を取り戻したようだった。

私には何もないよ、と言いかけて、目の前にいるこの男がいま直面している「何もなさ」に思い至る。たぶん本当は、私には何だってあるはずなのだ。

私には何でもある、でも、

"anything, but SOMETHING." と男が頷きながら繰り返す。

そう、それでも「なにか」を探しているんだよ。

男の持ち物は小さなコンビニ袋ひとつぶんだけだった。路上生活をするうちにスマホも何もかも盗まれてしまったらしい。かろうじてパスポートはあるんだ、と袋から取り出して見せてくれたそれはよれよれだった。湿った茶色い表紙に、金文字でPOLSKAと鷲の国章が入っている。ページを開くと現れた証明写真の男は、別人のように精悍な顔つきをしていた。生年月日をみると歳は私より2つ上だった。

ポーランド大使館へ助けを求めればいいのではないかと私が訊ねると、大使館は台北にあるがそこまで行く金がないのだと男は答えた。それなら警察へ行ってみたらどうかと聞いたが要領を得ない。台中駅から台北駅までは鈍行で3時間半、250元(1200円)もあれば行けるはずだ。自分が乗ってきた電車だから知っている。助けてやりたいが、男の話は本当だろうか?

「本当に困っているなら、台北までの切符を買ってやるよ」

もし男が嘘をついていたとしても、1200円くらいならさして痛くもない。旅の恥がかき捨てなら、旅の恩はかけ捨てだ。笛を吹き終えたイサムに事の成り行きを伝えると、「通行人から投げ銭をもらうはずが逆になったね」と笑った。予定していた電車には乗れないが、急ぐことはない。時間はたっぷりある。

電車に乗る前に、失くした荷物が届いていないか確かめたいと男が言うので、3人で駅前の交番を訪ねた。ここのやつらは横柄でファックなんだと男は愚痴を言ったが、警官たちはみな明るく親切だった。荷物は届いていなかった。

状況を伝えると 若い警官がポーランド大使館へ電話をつないでくれ、男は母国語で何やら訴えている。警官が言うには、この男は何度も交番のお世話になっているらしい。大使館はすでに男の帰国に向け動いているというが、話はろくに進んでいないようだった。電話は持っているか、家族は頼れないのか、などと今さら確認している。私が台北までの切符を買ってやるつもりだと伝えると、警官は台北の警察署と連絡を取り始めたようだった。

「こいつらは適当言って、俺を交番から追い出そうとしているんだ」と男は不安げに脚を揺する。

結局、台北の警察署から男のために迎えが来てくれることになった。午後には着くらしい。ポーランドへ帰るまでの宿泊場所も確保してもらえるようだ。男はここで迎えを待っていればよい。別れ際、男は椅子からよろよろと立ち上がり、その大きな腕で私とイサムをそれぞれ抱きしめた。

海岸沿いに立つ、不器用な風車たち。

予定より1本遅い、南行きの電車に乗った。
日が傾きかけ、窓外に高雄が近づくころ、私は思う。
あのあと男は交番を追い出されなかっただろうか?
台北からの迎えはちゃんと来ただろうか?
男は無事に母国まで帰れるのだろうか?

夜、ホテルでタブレットを開き、ゴミ収集車が流していたメロディを調べてみる。「乙女の祈り」という題のピアノ曲で、作曲はバダジェフスカというひとらしい。知らない名前だ。検索すると、バダジェフスカはポーランドの女だった。

男はきっと故郷へ帰れるだろう。



(続く)





荒木田慧