「雨は、神さまのおっぱい(2)」荒木田慧

2023年08月16日

前回の続き)


雨が降っている。

階下のどこかの部屋でテレビが点いていて、薄暗いドアの隙間からくぐもった声が低くジュクジュクと漏れ聞こえる。言葉を覚えたてのインコみたいだと私は思う。

言葉にはふたつあって、それはかたちと、かたちのない音だ。
言葉であらわされるものにもふたつあって、それは祈りと、祈りのような呪いだ。

イサムはタバコを欲しがるが私は絶対に買ってやらない。タバコが欲しいなら街で拾え、と台湾に来てから数週間、道に落ちているのを探したが見つからなかった。

ある日、台中市のアパート前の裏路地から角を曲がってすぐ、仏教寺院の塀の上にそれはあった。白い塀にくり抜かれた蓮の花の飾り部分に、タバコの青い箱を見つけた。こういうのはたいがいカラッポの空き箱なのだが、それはぴかっと光って見えた。箱を開けるとイサムの手のなかで、きれいに揃ったタバコが白い歯を見せて笑った。歯抜けは数本で、ほとんど手付かずだった。イサムは歓喜した。

韓国産のタバコらしい。箱の表にはジーンズを穿いた男の下半身と、先っぽが燃え尽きて項垂れたタバコの写真が印刷されている。下には中国語で注意書きがあった。

『タバコを吸うとインポになる』

イサムは、げえと顔をしかめた。私は笑った。

祈りのような呪い。

イサムはライターを欲しがったが、私は買ってやらなかった。仏教寺院がタバコを差し出してくれるなら、街はライターだって与えてくれるはずだ。しかし探そうとすると見つからない。ライターくらいどこにでも落ちていそうなものだが、見つけても拾い上げるとボロボロで使いものにならない。すっかり忘れて放り出しているとき、それは必ず見つかる。ライターは帰り道、何気なく座った百貨店前のベンチの背にあった。まだ新しい紫色のライター。

「卑しくなってはいけないね」

路上で暮らす友だちと親しく付き合うようになった3年前から、私は街に落ちているものを拾うようになった。ハンカチ、マフラー、ストラップ、傘、弁当、テーブル、などなど。店舗や市場の外、カネを介さない路上でも、モノはヒトのあいだを輪廻する。かつて森が豊かであったように、街は豊かだ。初めて会ったとき、イサムは道で拾ったという他人のメガネをかけていた。かつて森の人びとが森への畏れを決して忘れなかったように、私もイサムも、街への畏れを忘れてはならない。

釣具屋の前のベンチに座り、拾ったタバコに拾ったライターで火を点ける。コンビニで買うタバコよりも、ずっとうまい気がするのはなぜか。

雨が降っている。

イサムが痒がるのでしぶしぶ蚊取り線香を買った。

台湾製品のようだが、箱には中国語のほかに日本語のキャッチコピーも印刷してある。それは正確な日本語だった。箱の開け方を間違えたことに気づき、切り取り線がもったいないからと開け直す。すると開け口のところにも日本語を見つけた。中国語の下に、ちいさなフォントで

『ここからお開け◦』

とある。高飛車のようでいてやさしい。娼婦のようでいて高貴だ。文末のマルの位置が「。」ではないのもいい。適切な日本語ではない。でもどれほど言葉を正確に扱おうとしたところで、多かれ少なかれ誰もみな間違っている。間違っているものはやさしい。私は歓喜する。

「神は母であり、世界は言葉なんだよ。音はからだで、文字は服なんだ」とイサムは言う。

祈りと、祈りのような呪い。


夜で、雨が降っている。

この気ちがい女、とイサムは激昂する。
このクソ野郎、と私は挑発する。

お前は年増で、体も顔も醜い、そのうえ心まで醜い、とイサムは言う。
その通りだと私は思う。

日本に帰ってイサムなんかと別れ、精神病院にはいりたい、と私は泣く。
はいった病院でお前は嬉々として周りの患者の世話をしだすのだろう、聖女ぶるのだろう、
そんなのは容易に想像できる、とイサムは言う。
その通りだと私は思う。

私の手からスマホとタブレットが取り上げられる。
どうか破壊だけはしてくれるなと、部屋を出ていくイサムを追いかけて屋上のコンクリートにからだを投げ出す。ついた膝がざらりとして冷たい。
イサムの足元に取りすがる自分はあまりに醜悪でみじめだ。

俺と別れたらお前は自殺する。
そんなに死にたいなら、死ね、殺す、今すぐそこから飛び降りろ。

雨はどんどん強くなる。
屋上のコンクリートは鉄枠に囲まれていて、鳥籠のようだと私は思う。

もっとうまくやれ、と私は叫び、うまくやる必要などない、とイサムは叫び返す。

「僕の神さまはあのとき」

でも、うまくやる必要などないといつも叫んでいたのは私自身ではなかったか。

「好きなように生きなさいと言ったんだ」

雨が屋根を叩く。振り上げられたイサムの拳が、窓からの月明かりで影絵のように浮かぶ。イサムは私を殴らない。私はイサムが、イサムは私が心底憎い。憎くて憎くてぐちゃぐちゃに混ざり合って一緒に震えている。

地獄へ落としてやる、とイサムは泣く。
やってみせろ、と私は思う。

どしゃ降りで、屋根を打つ雨粒の大群がスタンディング・オベーションみたいに聞こえる。イサムの声は階下まで届かないだろう。大雨でよかったと私は安心する。

私とイサムは双子のようによく似ている。
イサムはとても醜くて、だから私も醜いまま平気でいられる。

茶番の終わり、観客は総立ちになって狂ったように手を叩いている。
平和とは、持続可能な戦争のことじゃないだろうか。

雨のない、土曜日の夕方。

大学前の大通りの角に立って、イサムは笛を吹く。浅草で買ったという篠笛で、朱色の本体に金色で桜の花が描いてある。イサムは紺色の甚平を着てそれを吹く。これ以上ないダサさだと私は思う。イサムの前には銀色の器が置いてあって、サクラの私はそこに景気付けとして20元(100円)入れてやる。

イサムが笛を吹くあいだ、私は街路樹の根に座って本を読む。大学の向かいでは夜市が始まるところで、前をゆく人通りは多いが、立ち止まるひとは誰もいない。白髪の老女が笛の音に合わせ、指を踊らせながら通り過ぎる。興味を示すのは小さな子どもたちだけで、振り返り、振り返り、母に手を引かれて先へゆく。

イサムの笛は上手くはないが、正直な音がする。
上手いものより正直なものが私は好きだ。

チャリン、と高い音がして、本から顔を上げイサムのほうを見ると、器に金を入れるひとがいた。足を止め、身をかがめて踵を返すそのひとの、背中に思わず「シェシェ」と頭を下げかけて、私はイサムの母ではないのだからと思い直す。

器を覗きこむとサクラの20元のほかに、もう20元入っていた。私とイサムは歓喜する。

今のは大学生くらいの青年だった。しかしイサムに聞くと、10歳くらいの男の子だったという。私とイサムは隣にいながら違う世界を見ている。


『ここからお開け◦』と神さまは微笑む。



(続く)



荒木田慧