「T-theaterのこと 第一部 T-theater結成まで」奥主榮

2023年03月03日

一、大村浩一という男

 詩のフォーラムで、大村浩一という男と出会った。当時、パソコン通信の世界では、オンラインで知り合った相手と直接顔を合わせる「オフ会」というのが盛んに行われていた。その席で、手帳を片手にやたらに参加者の詩の経歴とかを聞いて回る不審な男で、最初僕はてっきり運営会社の社員が参加者の身元調査をしているのかと思った。
 しかし実際は長い年月、詩の創作に携わってきた方で、遊び半分でも参加できるネット上の同人誌で、少しでも真剣に詩を描かれている方を探していたのだと知った。本業の傍ら、詩集の自費出版の手伝いもされていた。

 当時、大村から聞いた話で僕が印象深いのは、こんな言葉である。「今までは印刷技術というのが専門的な会社に独占されていた。しかし、DTP技術の進歩によって、それらは個人個人に解放されてきた。メディアというものは、これから大きく変わっていくはずだ。」
 単に、好きだというだけで詩を描いていた僕が、作品の発表手段というものを初めて意識した瞬間であった。

 世捨て人の生活を送っていた僕に、パソコン通信のおかげで友人知己が増えていった。あるとき、小規模なオフ会の後で、詩の研究会に参加していた大村らと合流することになった。僕が参加していたオフ会は、どこかで遊んでから大村と会いに行ったのだと思う。詩の研究会の会場のそばで、大村が出てくるのを待っていた。大村の他に、数名の詩のフォーラムのメンバーがいたのを覚えている。会場は、どこかの公民館か何かの古びた建物だった。
 その後、十数名で食事をしたのだけれど、あのときの恨みは忘れない。大村が「これだけの人数だと入れる店が限られている」と駅ビルの中の中華料理店を選んだのである。僕の払える勘定の三倍ぐらいの値段になった。(しくしくしく。) といった話はさておいて。
 そのときの話題の中で、詩の研究会では詩の朗読も行われたという話を聞いた。高名な詩人の朗読である。参加された方々は、それぞれに感銘を抱いておられた。ただ、何だろう。そのとき、僕の中に何かがこみ上げてきた。
 「詩の朗読って、地味だな」と思ったのである。

 中学の頃、図書館から借りてきた詩集に、ソノシート(レコード・プレーヤーで聴くことができる、レコードよりは弱い材質で作られた記録媒体。)が付いていた。家のオーディオでかけると、俳優による感情過多な朗読が流れてきた。僕は、吐き気がした。後に、テレビのお笑い番組「オレたちひょうきん族」の中で、プロのアナウンサーが「取扱い説明書」みたいな味も素っ気もない文章を感情こめて読み上げるというコーナーがあったが、あれを見たときには中学時代に感じた異様な感動の押し付けを思い出し、大笑いした。
 同じ中学時代、とても惹きつけられたフォーク・シンガーがいた。友部正人である。僕の詩の朗読の原点というのは、友部の「乾杯」などにあるかもしれない。歌詞の一部がラングストン・ヒューズの引用なので、思潮社から出された友部の詩集には収録されていない。ほぼ全編、朗読が続く。「いまだにクリスマスのような新宿の夜/一日中誰かさんの小便の音でも聞かされているような/やりきれない毎日」に始まり、あさま山荘事件の犯人が逮捕されたことに浮かれる酒場の客達への違和感が語られる。そして、「やつら、ニュース解説者みたいにやたら情にもろくなくてよかった」と、辛辣な展開をしていく。それは、世間様と折り合いをつけるのが苦手な、いつも怒ったような顔をしていただろう僕の心にとても響く言葉であった。ぶっきらぼうな読み方に魅了された。

 もう一つ、中学の頃。作者自らが詩の朗読を行っている、オーラル派の詩人というのを知った。
 1970年当時、フォークのレコードを出している会社に、URCというのがあった。
 もともとアメリカでの民謡であったフォークは、アメリカ本土でもいろいろな流れに分かれていた。季節労働者の群の中等で歌われたトラディショナル・フォークから、東部の裕福な家庭の子弟が歌うカレッジ・フォークなど。カレッジ・フォークのアメリカでのブームを受け、日本でも1960年代の初めに「フォーク」と冠せられた曲が歌われるようになる。ただ、きれいなハーモニーなどを売物にしたカレッジ・フォークとはまた別のフォークに興味を持つ人々も生まれる。東海岸で活動を始めながら、トラディッショナル・フォークに近かったボブ・ディランの存在が大きい。
 1960年代の半ば頃から、そうした歌手たちが大規模な芸能興業とは別の場所で注目を集めていくようになる。当時の政治状況の中で、労働者の地位向上、反戦といった歌が謳いあげられた。手づくりの唄を歌う人たちの合宿であるフォーク・キャンプという企画が開催される。それは次に、フォーク・ジャンボリーというイベントに発展する。1969年から1971年にかけて三回開催されたこの企画は、アメリカのウッドストック・フェスティバルのマネをして開催されたと誤解されている方が多いのだけれど、ウッドストックよりもわずかに早く行われている。そうした流れの中、大手のレコード会社からは避けられるような内容の音源を自主制作するURCという組織ができる。後のインディーズの先駆的な存在とされる。
 オーラル派の詩人たちは、そうしたフォーク・ソングの流れと合流していた。「ほんやら洞の詩人たち」というレコードは、URCから出されている。また、書籍として「ほんやら洞の詩人たち」が晶文社から上梓されている。秋山基夫、有馬敲、片桐ユズルがその代表的なメンバーであった。別に朗々とした上手な朗読でなくてもかまわない。普通に自分が発している言葉での朗読で良いではないかという、そうした集まりであった。
 有馬敲の詩は、特に当時のフォーク・シンガーたちに好まれ、歌にされた。高田渡の「値上げ」は、有馬の「変化」のタイトルを変えたものである。他に山平和彦の「贋金づくり」なども有馬の作品である。ただ、そうした知名度の高い歌よりも、今ではほぼ忘れ去られたシンガーたちによる「わらべうた」が僕は好きである。今はなくなってしまった池袋のぽえむぱろうるで手に入れた復刻CDは、何度も聴いた。

 詩は、僕にとって救いであった。
 どうしても周囲に理解してもらえない複雑な気持ち。この世界の在り方に何の疑問も抱かずに生きていける無神経さを、ただ嫌悪するしかない僕。でも、詩は「こんなふうに自分の気持ちをあらわすことができるんだ」という希望を僕に与えてくれた。
 なんだか、古びた公民館で地味に朗読されている方がおられて、一般的な詩の朗読のイメージが、特殊な人たちが集まるカルト集団みたいなものになってしまうことが、とても厭に思えたのである。

 エンタティメントという言葉を、単に娯楽として受け取るのではなく、人の心を癒したり、苦しい思いを救ったりするものであると理解すれば、詩は立派なエンタティメントだと、そんなふうに僕は思った。
2023年  3月  1日